聖書日課 ヨシュア記5章(新共同訳 旧約pp.345-346)
割礼は、イスラエル民族が主なる神に選ばれた者であることの証しとして、男性器の包皮の皮を切り取る儀式である。
割礼は、アブラハムの時に始まり、イスラエル民族に引き継がれてきた。しかし、荒れ野における40年間は施されていなかった。そこで、カナンの地に足を踏み入れたのを機に、主なる神はもう一度、割礼を施すように命じられた。
「そのとき、主はヨシュアに、火打ち石の刃物を作り、もう一度イスラエルの人々に割礼を施せ、とお命じになった。ヨシュアは、自ら火打ち石の刃物を作り、ギブアト・アラロトでイスラエルの人々に割礼を施した」(2~3節)。
荒れ野から祝福の地に足を踏み入れて最初に経験するのが、痛みであったことは注目に値する。
割礼は男性器の包皮の皮を切り取るので、痛みが伴う。しかし、その痛みは永遠に続くわけではない。痛みの後に勝利が約束されている。
割礼は、単なる肉体のしるしではない。既に荒れ野の時代、モーセを通して、「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」と語られている(申命記10章16節)。肉の割礼は〈心の割礼〉を予表していた。
救われた私達の心には、主なる神への愛・尊敬・従順といった思いが芽生えている。しかし、生まれながらの強情な心がそれを覆って邪魔している。
40年前のイスラエルは、その強情で頑なな心の故に、主なる神が導き入れようとされたカナンの地に入るのを拒んだ。そして、その世代のイスラエルは、約束の地に入ることが出来なかった。
私達が〈約束の地〉に入って行くためには、この強情な心、頑なな心が切り取られなければならない。それが心の割礼である。肉の割礼に痛みが伴うように、心の割礼にも痛みが伴う。
イエス・キリストを信じた者の内には、神の子としての心が芽生えている。主なる神に従おうとする心、主なる神を愛そうとする素直な思いが育っている。しかし、それを覆い隠し、妨げる頑なな心を切り取らなければならない。
肉の割礼は火打ち石の小刀で施されたが、心の割礼は失敗や試練といった小刀で施される。また、「神の言葉」という鋭い「両刃の剣」で施される時もある。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」(ヘブライ人への手紙4章12節)。
約束の地に入り、勝利と豊かさと安息を得るために、最初に経験するのは、心の割礼による痛みであることを覚えなければならない。
聖霊なる神は、私達の心に内住して、心に割礼を施される。聖霊が私達の心を取り扱われると、時には痛みを伴うが、それは勝利への第一歩であることを知ろう。
最後に、「ギルガル」の地で「過越祭を祝」い、「土地の産物」を「食べ始めた」日から、「マナ」が降るのは「なくなった」ことを見ておきたい(10~12節)。
荒れ野の40年間、主なる神は不思議な食物マナを降らせて、イスラエルの民を養われた。このマナは、主なる神の御言葉を象徴している。
そのマナが、約束の地に入ってからは降らなくなったというのは、どういうことだろうか。その理由について、聖書は「土地の産物を食べ始め」るようになったからだと述べている。
勿論、これは、御言葉が不要になったことを意味しているのではない。「土地の産物」も主なる神の御言葉を予表している。ただ、今までのように、受け身でマナを食べるのではなく、自らの手で収穫して食べるようになった。
主なる神の御言葉を受け身で食べるのは、幼児の段階である。それに対し、地を耕して収穫するというのは、自らの手で御言葉を食べるようになる段階を意味している。それが、約束の地における御言葉の受け方である。
受動的ではなく能動的に御言葉を受ける。ここに、約束の地で勝利を得、豊かさと安息を受ける法則がある。
西原新生バプテスト教会
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