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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 サムエル記下12章

聖書日課 サムエル記下12章(新共同訳 旧約pp.496-498)

 自分の罪をあからさまに糾弾された時、私達はどのような反応をするだろうか? 罪を犯さないことは重要であるが、自分の犯した罪に対しどのように対処するかということも重要である。

 この点で、ダビデ王は、やはり真実な信仰者であったと言える。

「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ」(9~10節)。

 これは、罪に陥ったダビデ王に対し、主なる神から遣わされた預言者ナタンが語った言葉である。

 ダビデは、ナタンの伝えた主なる神の言葉を聞くと、その場で即座に自分の罪を認め、主なる神の言葉を受け入れて悔い改めた。

ダビデはナタンに言った。『わたしは主に罪を犯した』」(13節)。

 ここで興味深いのは、ダビデ「わたしは〈主に〉罪を犯した」と言っていることである。ダビデが罪を犯したのは、直接的にはバト・シェバとその夫のウリヤに対してである。にもかかわらず、どうしてダビデ「主に罪を犯した」と言ったのだろうか。

 聖書の教える罪の本質は、主なる神の意に背くことにある。つまり、ダビデは自分の取った行動が主なる神の御心に反するものであったと認めたのである。ここに真の悔い改めの意味がある。つまり、悔い改めとは、人に対する責任の自覚と共に、主なる神に対する責任の自覚が生じるところから起こってくる。

 この自覚はとても重要である。何故なら、主なる神に対する責任の自覚は、同時に主なる神に赦されているという自覚と癒しをもたらすからである。ここに単なる後悔と真の悔い改めの違いがある。つまり、悔い改めは、赦しと癒しへと私達を導く恵みの道である。

 ダビデは、この恵みの道を選び取った。それ故、主は即座に彼の罪を赦しされた。

「ナタンはダビデに言った。『その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ』」(13~14節)。

 確かに、ダビデは罪の故の痛みを背負わなければならなかった。しかし、主なる神に対する責任の全ては恵みの故に赦された。そして、その痛みは、やがてソロモンの誕生によって祝福へと変えられた(24節)。まさしく「罪の増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれ」たのである(ローマの信徒への手紙5章20節)。ハレルヤ!

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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