聖書日課 ヘブライ人への手紙11章(新共同訳 新約pp.414-416)
11章では、アベル、ノア、アブラハム、モーセなど、「信仰を抱いて」生涯を全うした旧約の聖徒達について述べられている(13節)。彼らは「約束されたものを手に入れ」なかったが、「その信仰のゆえに神に認められ」た人々である(39節)。
では、信仰とはどういうことだろうか。勿論、イエス・キリストを主と信じることであるが、ヘブライ人への手紙は角度を変えてこう表現している。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、目に見えない事実を確認することです」(1節)。
つまり、見えないものを希望をもって見続けることが信仰だというのである。
主なる神は見えない。御子イエス・キリストも、復活と昇天の後、今は天に座しておられる。主なる神が約束された永遠の命も、主なる神のご支配(神の国)も、今はまだこの目ではっきり見ることが出来ない。だが、見えないだけであって、確かに存在する。
アベルは「信仰によって」「優れたいけにえを神に献げ」、主なる神から「正しい者である」と認められた(4節)。主なる神は、私達には見えないけれども、私達のことを見ておられる。
ノアは、罪を裁くために、洪水で世界を滅ぼすという「まだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき」、「信仰によって」これを信じた。そのため、人々から馬鹿にされても、「箱舟を造り」、「信仰に基づく義を受け継ぐ者」となった(7節)。
アブラハムは、「信仰によって」生まれ故郷を離れた。彼は「地上ではよそ者であり、仮住まいの者」であったが(13節)、まだ見ていない「天の故郷を熱望して」(16節)、「行き先も知らずに」旅を続けた(8節)。また、主なる神から自分の独り子イサクを献げよという「試練を受けたとき」(17節)、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」という主なる神の約束を信じ(18節)、「信仰によって」「イサクを献げ」た(17節)。
モーセは、「ファラオの王女の子」として地上の繁栄を手にすることではなく(24節)、「神の民と共に虐待される」ことを「信仰によって」選んだ(25節)。地上の繁栄は一時的であり、主なる神の栄光こそ永遠に続くことを知っていたからである。
目に見える世界だけを見ていると、理不尽な現実に押し潰されそうになる。だが、見えるものは一時的であり、常に変化する。だから、見えるものに振り回されてはならない。そうではなく、見えない主なる神を信頼しよう。この世界は「神の言葉によって創造され」たからである(3節)。
主なる神は変わらない。主なる神の御言葉は変わらない。主なる神が約束して下さったことを「信仰によって」見続けるならば、私達は現実に振り回されずに生きることが出来る。
西原新生バプテスト教会
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