聖書日課 ヘブライ人への手紙9章(新共同訳 新約pp.410-412)
私達は、自分の罪や過ちについて、自分の行い――善行を積む、修行をする、或いは慈善団体や宗教団体に多額の寄付をするなど――によって帳消しに出来ると考える傾向がある。もし自分でコントロール出来る自分の行為によって罪から清められるのであれば、誰でも自分の努力次第で自分を救えるということになる。
だが、実のところ、自分で自分を救えるとは、誰も思っていないのではないか。どんなにもがき苦しみ、努力しても打ち破ることが出来ない大きな壁、それが私達の罪である。
聖書は「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(22節)と語っている。そして、この罪の壁を打ち破るものこそ、イエス・キリストが十字架に流された血潮であると語っている。イエス・キリストは、全人類を罪から清めるために、天から来られ、自ら十字架にかけられ、血を流し、罪の贖いを完成された。
「それも、毎年自分のものでない血を携えて聖所に入る大祭司とは違い、キリストは、ご自身を何度も献げるようなことはありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から、度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりに、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り除くために、ただ一度現れてくださいました」(25~26節)。
イエス・キリストは、自分の努力や決心によっては決して取り除くことが出来なかった私達の罪を、十字架の血潮で贖って下さった。この方を見上げる時、今も生きて働く十字架の血潮が私達の存在に注がれ、罪が取り去られていく。
私達は今日もそれを経験することが出来る。イエス・キリストの血潮は、昨日も、今日も、そして永遠に私の上に、あなたの上に注がれ続けるからである。
「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(13~14節)。
西原新生バプテスト教会
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