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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 民数記19章

聖書日課 民数記19章(新共同訳 旧約pp.245-246)

 律法では「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる」とされており(11節)、その清めのための方法がレビ記で詳しく述べられている。にもかかわらず、民数記で再度述べられているのは、先のコラ達の反逆によって多くの人が死んだからだろう。

「一万四千七百人」(17章14節)もの死者があったので、彼らの葬りにイスラエルの殆どの民が関わることになり、そのための清めが必要とされたからだと思われる。

 内容をまとめると、「雌牛」を焼いて「灰」にし、その灰によって清めよと主なる神はお命じになった。

「それから、身の清い人が雌牛の灰を集め、宿営の外の清い所に置く。それは、イスラエルの人々の共同体のために罪を清める水を作るために保存される」(9節)。

 その雌牛は「まだ背に軛を負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛」であると規定されている(1節)。また、雌牛を焼いて灰にする際に、「杉の枝、ヒソプ、緋糸を取って、雌牛を焼いている火の中に投げ込む」とされている(6節)。

 この清めには、イエス・キリストによる犠牲の血を想起させる事柄が表されている。

赤毛「緋糸」は犠牲の血を表している。「無傷で、欠陥のない」は、罪がなく、義であられる御方を表している。「まだ背に軛を負ったことがなく」は、この雌牛が犠牲のためだけに用意されたことを意味している。

 何故「雌牛」なのだろうか。雌牛は命を産み出す。その意味で、イエス・キリストの犠牲によって永遠の命を生み出す結果になることを表しているのかも知れない。また、「杉の枝」イエス・キリストがつけられた十字架の木を想起させる。

「ヒソプ」は清めを表す植物として用いられた。このようにして雌牛が焼かれ、灰を集めて清めのために用いられた。その灰を水に溶かして振りかけたようである(9節)。

 では、何故「灰」にするのか。

 ここで押さえておくべきことは、いけにえの血が罪を清めるということである。

 とはいえ、毎回動物を連れて来て屠るのは実際的ではない。しかも、この時、多くの遺体を葬らなければならない状況にあった。そこで、赤毛の雌牛の灰をもって、その中に清めの血が凝縮されていると見なされたのではないか。灰を常備しておき、清めが必要になったら、水に溶かして使用したのだと思われる。

 勿論、これはやがて来られるイエス・キリストの十字架の血による清めを暗示していた。だから、新約聖書では、この灰について次のように述べられている。

「なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(ヘブライ人への手紙9章13~14節)。

 今や本物の血によって、私達は清められ、赦されるのである。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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