聖書日課 マルコによる福音書11章(新共同訳 新約pp.83-85)
「一行はまたエルサレムに来た。イエスが神殿の境内を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちがやって来て、言った。『何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。』」(27~28節)
こういう質問をしてくることから明らかなのは、この時祭司長、律法学者、長老達は、イエス・キリストの権威を認めていなかったということである。
そして、そういう人々に対して、たとえイエス・キリストが、「私は父なる神の権威によって、これこれのことをしている」と事実をありのまま答えたとしても、「ああ、そうでしたか」と素直に受け入れる筈がないことも明らかであった。
だからこそ、イエス・キリストは、彼らにこう言われたのではないか。
「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい」(29~30節)。
この時、彼らは「分からない」と答えた(33節)。もしヨハネの洗礼が「天からのものだ」と答えれば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と言われ(31節)、また、「人からのものだ」と答えれば、ヨハネを預言者と思っていた群衆が騒ぎ立てる危険があったからである(32節)。
結局のところ、彼らは、自分達の宗教的権威に胡坐をかき、主なる神の権威に従ってはいなかったのである。そして、人の目を恐れ、自分の縄張りを守ることばかり考えていたのである。
「すると、イエスは言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。』」(33節)。
彼らは、真理の主であるイエス・キリストの目の前にいたにもかかわらず、真理を知ることは出来なかった。主なるイエス・キリストの権威を認め、これに従う時、私達は初めて霊的真理を悟り、真理に生きることが出来る。