ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

祈祷会奨励 2021年8月19日

祈祷会奨励 2021年8月19日
ヨハネによる福音書18章15~18節、25~27節(新共同訳 新約p.204, 205)
「ペトロの躓きと回復」
讃美歌: 243(ああ主のひとみ、まなざしよ)、298(やすかれ、わがこころよ)

 イエス・キリストが逮捕された時、ペトロは、自分がイエス・キリストの弟子であることを強く否定した。私達も未信者の人に囲まれた時、同調してしまうことがある。イエス・キリストを否定することには、未信者のように振る舞うことも含まれている。何故ペトロはイエス・キリストに躓き、否定してしまったのだろうか。そして、何故そこから回復し、用いられるようになったのだろうか。

1. 何故ペトロはイエス・キリストを否んだのか?

(1) 自分の弱さを知らなかったから

 ペトロはこれまで忠実かつ熱心にイエス・キリストに従ってきた。だから、イエス・キリスト「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われても、自分だけは決して躓かないという自信があった(マタイによる福音書26章31節、33節)。彼は霊的に高慢になっていた。
 私達が一番弱いのは、私達が自信を持っている時である。私達は主なる神の恵みなしには存在し得ない者である。ペトロのように言葉によって否定しなかったとしても、態度や行動によって否定してしまうことがあると知る必要がある。

(2) 祈らなかったから

 イエス・キリストはゲツセマネで、自分が「願うことではなく、御心に適うことが行われ」るのを求めて真剣に祈りを献げた。一方、ペトロは、イエス・キリストから「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われたのに眠ってしまった(マルコによる福音書14章36節、38節)。
 その後、敵が大勢で彼らを捕らえに来た。イエス・キリストは自分から進み出て、「わたしである」と堂々と名乗られた(ヨハネによる福音書18章4~8節)。一方、ペトロは、気が動転して、大祭司の手下に切りかかり、片方の耳を切り落とした挙句、イエス・キリストとの関係を否定してしまった(26節)。
 主なる神に祈って、日々信頼している人とそうでない人の違いをここに見ることが出来る。試練の中に入れられた時、その違いが出てくる。私達は弱い者である。言葉で「知らない」と言わないとしても、パニックに陥ると、未信者の人と同じ言動をしてしまう。

(3) 遠く離れて従っていたから

 ペトロはそれまでイエス・キリストの影のように近くにいた。しかし、この時は「遠く離れて従っていた」(ルカによる福音書22章54節)。彼はどっちつかずであった。イエス・キリストと大祭司、どちらの側にもつけるような態度をとっていた。そのような状態にあって、「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」と言われた時、ペトロは「違う」イエス・キリストを否定してしまった(17節)。曖昧でどっちつかずの信仰では、試練に打ち勝つことが出来ない。

(4) 場の空気に流されてしまったから

 ペトロはイエス・キリストを否定する人達と一緒に火にあたっていた(18節)。だから、彼らにイエス・キリストとの関係を問われた時、場の空気に流され、自分はイエス・キリストと何の関係もないと否定してしまった。ペトロが大祭司達を前にしても「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(使徒言行録4章19節)とはっきり言えるようになったのは、聖霊に満たされてからである。
 イエス・キリストへの信仰は、〈告白する〉信仰である。私達が日常生活の中で出会う人の殆どはキリスト者ではない。私達はその人達にイエス・キリストの証人として遣わされている。
 日本では空気を読むことが、大なり小なり必要不可欠とされている。だが、空気を読むだけでは、ペトロのように流されて、何も言えなくなってしまう。空気に支配されないためには、聖霊の助けが必要である。
 イエス・キリストを否定した時、ペトロは滅びの穴に今にも落ちそうな状態にあった。しかし、彼は落ちなかった。そればかりか過ちから回復することが出来た。

2. 何故ペトロは回復出来たのか?

(1) イエス・キリストがペトロのために祈られたから

 イエス・キリストは、ペトロが試練に遭う前にも、試練に遭っている時にも、彼の「信仰が無くならないように祈」られた(ルカによる福音書22章32節)。だから、ペトロは守られた。
 未信者と思われても仕方のないような言動を度々してきた私が、今主の御用をさせていただいているのも、イエス・キリストが私のために祈って下さっていたからである。イエス・キリストは私達の信仰がなくならないようにいつも祈って下さっている。

(2) イエス・キリストが愛の眼差しをペトロに向けられたから

 イエス・キリストは、自分自身に死が迫っていたのに、ペトロのことを心配して、愛の眼差しを向けられた(ルカによる福音書22章61節)。自分を裏切ったペトロを主は見捨てなかった。
 人間の愛は条件付きである。しかし、イエス・キリストの愛は昨日も今日も明日も変わることがない。私達が躓くことがあっても、主は変わることなく私達に愛の眼差しを向け、励ましを与えて下さる。だから、私達の内にも「主に従わないといけない」という思いが起こされていく。

(3) イエス・キリストがペトロに交わりを求められたから

 イエス・キリストは、自分を裏切った弟子達に、御自分の方から、それも「あなたがたに平和があるように」という祝福の言葉と共に交わりを求められた(ヨハネによる福音書20章19節)。それ故、ペトロはこの人による以外に救いはないと確信するに到った(使徒言行録4章12節)。
 私達がどんなに弱くても、主が私達と共におられると知る時、主を否むことは出来なくなる。そして、どんな試練の中でも、どんな誘惑の中でも、イエス・キリストへの信仰をはっきり表明出来るようになる。私達が空気に流されてしまっているような時にも、主は私達を愛の眼差しで見つめておられる。自分が弱い者であることを覚えると共に、祈りを通してイエス・キリストの愛を想い起こし、それに応答していく者でありたい。