聖書日課 ローマの信徒への手紙3章(新共同訳 新約pp.276-277)
〈信仰による義〉、それがローマの信徒への手紙の中心テーマである。ユダヤ人は、自分達には律法が与えられていると誇っていた。しかし、律法はそれに従い生きることに意味があるのであり、持っているだけでは何の意味もない。
ところが、律法は、それをきちんと守り行おうとすればするほど、そう出来ない自分の罪に気付かされるものである。そこに、宗教改革者マルティン・ルターの苦しみもあった。ルターは、その苦しみの中で〈信仰による義〉を見出した。即ち主イエス・キリストが、罪人の身代わりに死んで下さったことによって、全ての罪が赦された。そして、それを信じることによって〈神の義〉が得られる。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(21~24節)。
このように、律法は人に罪を示す。そして、罪を示された人間は、それによって主イエス・キリストを信じる〈信仰による義〉へと導かれる。そこに主なる神の救いの御計画があった。
ところが、或る人々は、信仰による義を説くパウロが「律法を無にする」(31節)教えを説いていると誤解し、パウロを非難した。信じるだけで救われるなら、律法を行う必要もないし、そもそも律法そのものが必要なくなってしまうのではないかというのである。
しかし、パウロは言った。
「それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」(31節)。
罪の中に生まれた人間の力によっては、決して得ることの出来ない律法による義を、主なる神の御子である主イエス・キリストが、全ての罪人の代わりに、御自分の生き方と死をもって成し遂げて下さった。つまり、イエス・キリストによって律法は確立されたのである。そして、それを信じる全ての人々、即ち、ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエス・キリストを信じる全ての人々も、イエス・キリストの故に義とされる。それが〈信仰による義〉である。
そこには、身分も、国籍も、能力も、業績も、一切関係ない。全て主イエス・キリストが成し遂げて下さったからである。私達は、ただ信じて感謝をもって受け取るだけでよい。その時、私達は、永遠に主と共に生きる者とされる。
西原新生バプテスト教会
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