ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

聖書日課 ホセア書6章

聖書日課 ホセア書6章(新共同訳 旧約pp.1409-1410)

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる」(1~3節)

 これは神殿の祭儀で祭司達が歌った悔い改めの歌であろうと言われている。これだけ読むと、とても信仰深い歌であり、祈りであるように思われる。

 しかし、これは真実な悔い改めの歌ではなかった。前章でも見たように、彼らの中には淫行の霊があった(5章4節)。そのため、形式的には主なる神を拝んでいても、同時にバアルにも心を寄せ、これも拝んでいた。勿論、主なる神は、そのような彼らの〈本音〉を全て知っておられた。

「エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(4~6節)

 どれほど沢山のいけにえを献げても、そこに主なる神を慕い求める真実な心がなければ、主なる神は決して喜ばれない。どんなに立派な宗教儀式を行っても、主なる神の御言葉に真に聞き従うことがなければ、それは無意味な形式に過ぎない。そこに主なる神の臨在はなく、喜びも祝福も決して期待することは出来ない。何故なら、主なる神が求めておられるのは、献げ物ではなく信頼する心であり、儀式ではなく真実な愛の交わりだからである。

 この時イスラエルの人々が第一になすべきことは、真の悔い改めであった。彼らは、何よりもまず、自分達の心の中から偶像を取り除ける必要があった。そして、主の御前にひれ伏し、主にのみ聞き従って生きることが必要だった。

 私達の信仰はどうだろうか。私達の礼拝は単なる儀式や形式に陥っていないだろうか。私達は、真に主なる神を慕い求め、主なる神の御声に聞き従って生きているだろうか。