ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 詩編78編

聖書日課 詩編78編(新共同訳 旧約pp.913-916)

 第78編は、不信仰と不従順を繰り返してきた神の民イスラエルの歴史を振り返って後世への警告とすると共に、そのような民をなお慈しみ、憐れみ守り続けて下さった主なる神の恵み深さを教える教訓的な詩である。

 特に最初の1~8節では、この詩の作者が、「主が成し遂げられた驚くべき御業」「定め」を語り伝える目的が記されている。それは「子らが神に信頼をおき/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るため」であり、彼らが「先祖のように/頑な反抗の世代とならない」ためであると言われている。

「【マスキール。アサフの詩。】わたしの民よ、わたしの教えを聞き/わたしの口の言葉に耳を傾けよ。わたしは口を開いて箴言を/いにしえからの言い伝えを告げよう/わたしたちが聞いて悟ったこと/先祖がわたしたちに語り伝えたことを。子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう/主への賛美、主の御力を/主が成し遂げられた驚くべき御業を。主はヤコブの中に定めを与え/イスラエルの中に教えを置き/それを子孫に示すように/わたしたちの先祖に命じられた。子らが生まれ、後の世代が興るとき/彼らもそれを知り/その子らに語り継がなければならない。子らが神に信頼をおき/神の御業を決して忘れず/その戒めを守るために/先祖のように/頑な反抗の世代とならないように/心が確かに定まらない世代/神に不忠実な霊の世代とならないように」(1~8節)。

 ここで興味深いのは、「頑な反抗の世代」について、「心が確かに定まらない世代」であると言われていることである。現代社会ではどうしてこんなに心を病む人が増え続けているのか? いや病気にならないまでも、現代人はどうしてこんなに深く不安に見舞われているのだろうか?

 聖書ははっきりとその根本的原因を述べている。それは「神に不忠実な霊の世代」であるからだと。もしそれが真の原因だとすれば、どんなに医学や心理学が発達しても、そこに主なる神への忠実さがなければ、本当の意味での癒しや解決はない。

 人間の問題の本質には、主なる神への「反抗」「不忠実」という罪が横たわっていることを、今こそ私達は知るべきなのではないか。そして、その罪を解決するために、救い主イエス・キリストがこの地にお生まれになったということの重大性を改めて認識し、子供に、また全ての人に、全身全霊で語り伝えていくべきなのではないか。

西原新生バプテスト教会
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〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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聖書日課 詩編77編

聖書日課 詩編77編(新共同訳 旧約pp.911-913)

 以前「苦しい時の神頼み」であっても、主なる神に頼るのは良いことだと書いた。

 しかし、この詩の作者のように、眠ることも出来ずに、主なる神に「助けを求め」続け、夜通し「神を思い続けて呻」くようなことは、やはり本気で主なる神を信じていなければ、なかなか出来ない。

「神に向かってわたしは声をあげ/助けを求めて叫びます。神に向かってわたしは声をあげ/神はわたしに耳を傾けてくださいます。苦難の襲うとき、わたしは主を求めます。夜、わたしの手は疲れも知らず差し出され/わたしの魂は慰めを受け入れません。神を思い続けて呻き/わたしの霊は悩んでなえ果てます。[セラ あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。心は騒ぎますが、わたしは語りません」(2~5節)。

 長引く苦難の中で、それでも主なる神を求め続ける力は、苦しい時だけ主なる神に助けてもらおうというあり方からは出てこない。それは、私達が日常の生活の中で、どれほど主なる神への信頼を深め、主なる神との愛を培っているかがものを言う。

「わたしは主の御業を思い続け/いにしえに、あなたのなさった奇跡を思い続け/あなたの働きをひとつひとつ口ずさみながら/あなたの御業を思いめぐらします。神よ、あなたの聖なる道を思えば/あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか。あなたは奇跡を行われる神/諸国の民の中に御力を示されました」(12~15節)。

 この詩の作者は、苦難の中で、これまで主がなされた「御業」「奇跡を思い」起こしている。それは平穏無事な日々の中で培ってきた主なる神についての知識、主なる神との絆が、いざという時に力を発揮したということであるに違いない。

 信仰とは、主なる神への信頼であり、順境の時も逆境の時も、決して切れることのない絆を生み出す力である。御言葉によって、祈りによって、日々主なる神への信頼を深め続けることが大切である。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手に包まれ、御前に祈りを献げることが出来ますことを、心から感謝致します。

 主よ、あなたは私達を握り、決して見捨てない方。私達を取り巻く状況は決して望ましいものではありませんが、そのような時、聖書に記されているあなたの恵みの歴史に思いを巡らせます。

 自分のことしか考えない罪深い者、あなたに反抗する者、あなたを否定する者を、あなたは慈しんで見捨てませんでした。そのあなたが、今、私達の主となって下さっています。

 苦しみの中で、あなたを思い出すことが出来るよう助けて下さい。聖書に記録されている、あなたの恵みの歴史を深く知ることが出来るよう、導いて下さい。決して見捨てることのないあなたの恵みの業を、私達一人一人が個人的に体験出来るようにして下さい。

 今日も私達一人一人と共にあって下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編76編

聖書日課 詩編76編(新共同訳 旧約p.911)

 第76編は、前編に続いて、アッシリアによってエルサレムが取り囲まれた時、主なる神の不思議な御業によってアッシリアが敗走した出来事が背景となっている。

「神はユダに御自らを示され/イスラエルに御名の大いなることを示される。神の幕屋はサレムにあり/神の宮はシオンにある。そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き/盾と剣を、そして戦いを砕かれる。[セラ あなたが、餌食の山々から/光を放って力強く立たれるとき/勇敢な者も狂気のうちに眠り/戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると/戦車も馬も深い眠りに陥る」(2~7節)。

 主なる神の臨在の「光」の前では、誰も力を振るうことは出来ない。「勇敢な者」「戦士」も、「戦車も馬も」主なる神の力の前には、皆「眠りに陥る」ように無力なものとされてしまう。それが主なる神であり、だからこそ主なる神であると言えるだろう。

 それ故、私達が真に恐れるべき存在は、人間でも、自然でも、悪魔でもなく、主なる神である。この詩の作者も次のように告白している。

「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう。あなたは天から裁きを告知し/地は畏れて鎮まる」(8~9節)。

「天」「地」を造り、人間を造り、自然を造り、歴史を支配される主なる神。その主なる神が、私達を愛し、罪と汚れの中で苦しむ私達のために独り子イエス・キリストを送り、十字架によって救いの道を開いて下さった。主なる神は、今、キリスト・イエスを信じる私達と共にいて下さる。真に恐れるべき存在、私達が心から畏れ敬い、信頼すべき御方は、この主なる神をおいて他にない。

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聖書日課 詩編75編

聖書日課 詩編75編(新共同訳 旧約pp.910-911)

 一説によると、この詩は、アッシリアの王センナケリブユダ王国に攻め寄せ、エルサレムを取り囲んだ出来事が背景となっている。

「あなたに感謝をささげます。神よ、あなたに感謝をささげます。御名はわたしたちの近くにいまし/人々は驚くべき御業を物語ります」(2節)。

 圧倒的な力を誇るアッシリアによって今まさに攻め込まれ、滅ぼされようとしていたその時、主なる神の不思議な御業によってセンナケリブは退散し、間もなく殺されてしまった。それは100%主なる神の奇跡であり、人間の知恵や力によるものではなかった。これが2節で言われている「驚くべき御業」である。

「わたしは必ず時を選び、公平な裁きを行う。地はそこに住むすべてのものと共に/溶け去ろうとしている。しかし、わたしは自ら地の柱を固める。[セラ わたしは驕る者たちに、驕るなと言おう。逆らう者に言おう、角をそびやかすなと。お前たちの角を高くそびやかすな。胸を張って断言するな」(3~6節)。

 時が来れば、主なる神は「必ず」「公平な裁きを行う」御方である。悪人が地を悪で満たす時、主なる神は「必ず」行動を起こされる。それによって悪を滅ぼし、地上に再び秩序と道徳の柱を固く立てられる。

「神が必ず裁きを行い/ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう」(8節)。

 この「ある者」とは、どのような人のことだろうか?

「わたしは逆らう者の角をことごとく折り/従う者の角を高く上げる」(11節)。

 主なる神の原則は明白である。「逆らう者」「驕る者」は必ず打ち砕かれ、「従う者」「へりくだる者」「高く上げら」れる。イエス・キリストもこう言われている。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタイによる福音書23章12節)。

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聖書日課 詩編74編

聖書日課 詩編74編(新共同訳 旧約pp.909-910)

 罪のために国を失った神の民。主なる神の掟に逆らい、偶像を拝み、貧しい人々を虐げ続けたために、都も神殿も全て破壊された神の民。預言者の声は絶えて久しく、主なる神に「刃向かう者」の嘲り侮る声だけが響き渡り、永久に続くかのように思える日々…。第74編は、そのような滅びと辱めの状況の中で、主なる神に向かい、主なる神に訴える嘆きと祈りの詩である。

「【マスキール。アサフの詩。】神よ、なぜあなたは/養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき/永遠に突き放してしまわれたのですか。どうか、御心に留めてください/すでにいにしえから御自分のものとし/御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を/あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃虚となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました。あなたに刃向かう者は、至聖所の中でほえ猛り/自分たちのしるしをしるしとして立てました」(1~4節)。

「わたしたちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません。神よ、刃向かう者はいつまで嘲るのでしょうか。敵は永久にあなたの御名を侮るのでしょうか」(9~10節)。

 絶体絶命、万事休す、四面楚歌という状況の中で、どこまでも主なる神に向かい、祈り、訴える。それが〈神の民〉というものではないか。たとえそれが先祖の犯した罪の故の裁きであろうと、自分自身の罪の故であろうと、主なる神の御前にひれ伏し、悔い改め、謙るのである。

 何故なら、主なる神の約束と慈しみは、決して変わることなく確かだからである。人間の約束ならば果たされないこともあるだろう。人の心ならば変わってしまうこともあるだろう。しかし、主なる神の計画、主なる神の「契約」は、決して変わることはない! 時が来れば、必ず成就する。

 主なる神の確かさ、その誠実さに依り頼む。そこに信仰がある。振り返れば、主なる神は、「海を分け」、敵の「頭を打ち砕」いて神の民を救い出された(13~14節)。また、主なる神は、「太陽」と月を造り、「昼」「夜」「夏と冬を造られた」御方である(16~17節)。これほど偉大で力ある存在が他にあるだろうか? この偉大で、確かな、決して変わることのない主なる神に向かって、この詩の作者は叫び祈る。

「契約を顧みてください。地の暗い隅々には/不法の住みかがひしめいています。どうか、虐げられた人が再び辱められることなく/貧しい人、乏しい人が/御名を賛美することができますように」(20~21節)。

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聖書日課 詩編73編

聖書日課 詩編73編(新共同訳 旧約pp.907-909)

 主なる神に対して驕り高ぶる悪人が「安泰」であるのに、主なる神に従う善人が「苦しみ」つつ生きるという現実を見て、「わたしは驕る者をうらやんだ」と作者は記している。

「【賛歌。アサフの詩。】神はイスラエルに対して/心の清い人に対して、恵み深い。それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた。神に逆らう者の安泰を見て/わたしは驕る者をうらやんだ。死ぬまで彼らは苦しみを知らず/からだも肥えている。だれにもある労苦すら彼らにはない。だれもがかかる病も彼らには触れない。傲慢は首飾りとなり/不法は衣となって彼らを包む」(1~6節)。

 潔白に生きようとしている自分は、病に倒れ、懲らしめを受けている。ところが、「神に逆らう者」「死ぬまで」「苦しみを知らず/からだも肥えている」。これは一体どういうことだ! 私達も、そのような憤懣と疑いの思いに苛まれることはないだろうか。しかしこれは、主なる神に従って生きようとする人だからこその思いかも知れない。

 そのような経験について、この詩の作者は「わたしは、あやうく足を滑らせ/一歩一歩を踏み誤りそうになっていた」と言っている。つまり、これは私達が罪の支配するこの世のことで頭と心が一杯になってしまう時に湧き起こってくる悪への誘いの思いである。

 しかし、作者はこの時、自分の目をこの世から天の神に向け直した。

「わたしの目に労苦と映ることの意味を/知りたいと思い計り/ついに、わたしは神の聖所を訪れ/彼らの行く末を見分けた/あなたが滑りやすい道を彼らに対して備え/彼らを迷いに落とされるのを」(16~18節)。

「見よ、あなたを遠ざかる者は滅びる。御もとから迷い去る者をあなたは絶たれる」(27節)。

「神に逆らう者」「驕る者」は必ず「滅びる」、それが主なる神の答えだった。そして、作者は、この世における真の「幸い」を見出して言った。

「わたしは、神に近くあることを幸いとし/主なる神に避けどころを置く。わたしは御業をことごとく語り伝えよう」(28節)。

 主なる「神に近くあること」、これこそ聖書の教える幸福の源である。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も御前に引き出し、御傍近くに引き寄せ、礼拝させて下さることを、心から感謝致します。

 主よ、あなたこそ私の全てです。天にも地にもあなたのほかにこの存在が依り頼むべきものはありません。

 私達はこの世の人生で痛み、苦しみ、揺さぶられますが、あなたが握って下さいます。あなたが私達の存在の基盤となって下さる。これに勝る祝福があるでしょうか。

 私達を苦しめる一つ一つのことについても、あなたにお委ねします。私達は、あなたを礼拝することだけに心を注ぐことが出来ますように。あなたの光を求めることが出来ますよう、助け導いて下さい。

 苦しみの中、痛みの中にある兄弟姉妹を顧みて下さい。どうか傍にいて支え、今日もあなたを礼拝することが出来ますよう、助けて下さい。御手の中に全てのことを委ねることが出来ますよう、お導き下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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聖書日課 詩編72編

聖書日課 詩編72編(新共同訳 旧約pp.906-907)

 第72編は、地上の王が主なる神の代行者として「貧しい人々」「救い」「虐げる者を砕」いて正義と「平和をもたらし」「代々に永らえ」るようにと主なる神に祈る詩である。

「【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように」(1~7節)。

 いつの時代でも、為政者が正義を行い、「貧しい人々」が救われるのは、誰もが願うことであるに違いない。特にこの詩では、為政者自身がそのような者であることを祈り求めている点に素晴らしさがある。

 しかし、現実の社会では、為政者の横暴や専断的支配によって、貧しい者や弱い者が虐げられることが何と多いことだろう。民主主義社会、福祉社会と言われる現代でも、そういった問題は山積している。

 そう考えると、この詩は、現実の王を超えて理想的な真の王を求める詩、即ちメシア詩編であると言える。

 真に正しい「裁き」を行い、全ての「貧し」く弱い人々を救い、この地上に豊かな「平和をもたら」すことの出来る王は、私達の主イエス・キリストの他にはいない。このイエス・キリストを、自分自身の真の王として迎えること、そこに罪による永遠の滅びからの救い、主なる神との和解、そして豊かな平安と平和がある。

「栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン」(19節)。

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聖書日課 詩編71編

聖書日課 詩編71編(新共同訳 旧約pp.904-906)

 第71編は、主なる神への信頼の詩である。しかも、そこでダビデ「母の胎にある時から」主なる神に「依りすがって来」たとまで述べている。

「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み/母の胎にあるときから/あなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から/わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します」(5~6節)。

 これは、それほどに徹底的な信頼、それほどに深い信仰を主なる神に置いているということである。しかし、この言葉は決して大袈裟ではない。何故なら、主なる神は天地創造の前」から「わたしたちを愛し」「キリストにおいてお選び」下さったと言われているからである(エフェソの信徒への手紙1章4節)。そうだとすれば、主なる神は、私達が「母の胎にあるときから」、いつも守って下さっていたに違いない。

 更に、この詩の素晴らしいところは、次の御言葉にも表れている。

「わたしが老いて白髪になっても/神よ、どうか捨て去らないでください。御腕の業を、力強い御業を/来るべき世代に語り伝えさせてください」(18節)。

 母親のお腹の中にいた時から守って下さっていた主なる神は、「老いて白髪になっても」、決して「捨て去」ることはない。力漲る若い時に助けて下さった方は、力衰えて弱くなってからもお守り下さる方である。

 老いることの苦しみの一つは、見捨てられ、忘れ去られてしまうことへの恐れと不安である。しかし、主なる神は、見捨てることも、忘れることも決してない。天地創造の前」から私達を「選び」、愛して下さっている主なる神は、今日も明日も、永久に私達と共にいて、愛し、守り、導いて下さる方である。この御方に、一心に信頼を置きつつ歩み続けたい。

「神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。あなたはすぐれた御業を行われました。神よ、誰があなたに並びえましょう」(19節)。

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聖書日課 詩編70編

聖書日課 詩編70編(新共同訳 旧約p.904)

 第70編は、たった6節しかない短い詩だが、内容はかなり逼迫している。

「神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください」(2節)。

「命をねらう者」が迫り来る緊張状態の中で、作者は、「速やかに」「救い出し」「助けてください」と主に訴え祈っている。そして、更にこう祈っている。

「わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き/はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように」(3~4節)。

 自分の敵が「恥を受け、嘲られ」「逃げ去」ることを願うというのは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエス・キリストの教えとは、随分懸け離れているように思われる(マタイによる福音書5章44節)。これは信仰からの逸脱なのだろうか。それとも旧約的信仰の限界なのだろうか。しかし、早々に結論を出す前に、次のパウロの言葉を考えてみたい。

「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(コリントの信徒への手紙一16章22節)。

「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」というのは、とても激しい言葉である。しかし、それはパウロがどんなに真剣に、真実に主イエス・キリストを信じ、愛していたかの表れに他ならない。

 逸脱とか限界とか結論を出す前に、主なる神に対する自分自身の信仰の真剣さ、そして真実さを問い直してみることが大切かも知れない。

「あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください」(5~6節)。

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聖書日課 詩編69編

聖書日課 詩編69編(新共同訳 旧約pp.901-904)

 第69編は、苦難の中で主の助けと救いを求める詩であるが、そこには、作者が受けている屈辱の原因が述べられている。

「わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ/粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/わたしに答えて確かな救いをお与えください」(8~14節)。

 主なる神への信仰とその熱心さが、却って人々の「嘲り」の対象となり、「断食」や強い悲しみを表す「粗布」をまとっての祈りさえ、「非難」されたり、酒の肴に歌われたりしているというのである。

 熱心な信仰に対する誤解や非難は、昔も今も変わりない。あのマザー・テレサでさえ、最初は周りの人々から〈狂信者〉扱いされた。また、主イエス・キリストの弟子達も、イエス・キリストが神殿の境内から商売人を追い出したのを見た時、この詩の言葉を思い出したと記されている(ヨハネによる福音書2章17節)。信仰の熱心さが、人々に理解され受け入れられるのは難しいことなのかも知れない。

 しかし、主なる神が私達に望んでおられるのは、私達がいつも〈熱く生きる〉ことである。

「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。…わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(ヨハネの黙示録3章15~19節)。

「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」イエス・キリストが言われたこの終末の世界を熱くするのは(マタイによる福音書24章12節)、主なる神への熱情の他にない。主なる神と人を愛することにおいて、熱く強く生き続けたいものである。

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