第69編は、苦難の中で主の助けと救いを求める詩であるが、そこには、作者が受けている屈辱の原因が述べられている。
「わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ/粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/わたしに答えて確かな救いをお与えください」(8~14節)。
主なる神への信仰とその熱心さが、却って人々の「嘲り」の対象となり、「断食」や強い悲しみを表す「粗布」をまとっての祈りさえ、「非難」されたり、酒の肴に歌われたりしているというのである。
熱心な信仰に対する誤解や非難は、昔も今も変わりない。あのマザー・テレサでさえ、最初は周りの人々から〈狂信者〉扱いされた。また、主イエス・キリストの弟子達も、イエス・キリストが神殿の境内から商売人を追い出したのを見た時、この詩の言葉を思い出したと記されている(ヨハネによる福音書2章17節)。信仰の熱心さが、人々に理解され受け入れられるのは難しいことなのかも知れない。
しかし、主なる神が私達に望んでおられるのは、私達がいつも〈熱く生きる〉ことである。
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。…わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」(ヨハネの黙示録3章15~19節)。
「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」とイエス・キリストが言われたこの終末の世界を熱くするのは(マタイによる福音書24章12節)、主なる神への熱情の他にない。主なる神と人を愛することにおいて、熱く強く生き続けたいものである。
西原新生バプテスト教会
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