第70編は、たった6節しかない短い詩だが、内容はかなり逼迫している。
「神よ、速やかにわたしを救い出し/主よ、わたしを助けてください」(2節)。
「命をねらう者」が迫り来る緊張状態の中で、作者は、「速やかに」「救い出し」、「助けてください」と主に訴え祈っている。そして、更にこう祈っている。
「わたしの命をねらう者が/恥を受け、嘲られ/わたしを災いに遭わせようと望む者が/侮られて退き/はやし立てる者が/恥を受けて逃げ去りますように」(3~4節)。
自分の敵が「恥を受け、嘲られ」て「逃げ去」ることを願うというのは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエス・キリストの教えとは、随分懸け離れているように思われる(マタイによる福音書5章44節)。これは信仰からの逸脱なのだろうか。それとも旧約的信仰の限界なのだろうか。しかし、早々に結論を出す前に、次のパウロの言葉を考えてみたい。
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように」(コリントの信徒への手紙一16章22節)。
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」というのは、とても激しい言葉である。しかし、それはパウロがどんなに真剣に、真実に主イエス・キリストを信じ、愛していたかの表れに他ならない。
逸脱とか限界とか結論を出す前に、主なる神に対する自分自身の信仰の真剣さ、そして真実さを問い直してみることが大切かも知れない。
「あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように。神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください」(5~6節)。
西原新生バプテスト教会
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