ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 士師記14章

聖書日課 士師記14章(新共同訳 旧約pp.406-407)

 サムソンは、ペリシテ人の娘に目をひかれ」、結婚したいと「父母」に申し出た。

「サムソンはティムナに下って行ったが、そのティムナで一人の女、ペリシテ人の娘に目をひかれた。彼は父母のところに上って行って、『ティムナで、一人の女、ペリシテ人の娘に目をひかれました。どうか彼女をわたしの妻に迎えてください』と言った」(1~2節)。

 しかし、サムソンの両親は猛反対した。それもそのはず、当時ペリシテ人は、イスラエルを支配していた」憎き敵であり、主なる神が結婚を禁じていた異教徒だったのだから。しかし、サムソンは、どうしても彼女と結婚したいと言い張った。これは、彼が未だ頑固で未熟な若者であったことを物語っているようである。

「父母は言った。『お前の兄弟の娘や同族の中に、女がいないとでも言うのか。無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは。』だがサムソンは父に、『彼女をわたしの妻として迎えてください。わたしは彼女が好きです』と願った」(3節)。

 ところが、聖書はこう記している。

「父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった」(4節)。

「えっ? これが主の御計画だって? 律法で異教徒と結婚してはならないと命じたのは主ご自身ではなかったの?」と、頭の中に“?”が沢山浮かんでくる。

 しかし、そうではない。これは、主なる神は人間の頑固さや未熟さをも用いられることがあるということである。そして、そのような人間の弱さを超えて、主なる神の救いと祝福の御計画は遂行されていく。

 士師の時代は、信仰の低迷期であった。士師達でさえ、弱さと未熟さを沢山持っていた。それでも、主なる神は、未熟で頑固な人を用いてイスラエルを救い、解放し、祝福へと導かれた。これは、まさしく主なる神がなさる「不思議」(13章18節)、人知を超えた主なる神の恵みの御業である。

 もし主なる神が人に義を求めるだけの方であるならば、私達の罪は決して赦されないだろう。もし主なる神が人に完璧を求めるだけの方であるならば、弱く未熟な私達は誰一人として救われないだろう。しかし、主なる神は、罪と弱さの中にある私達の身代わりとなって、十字架によって義を完成して下さった。ここに赦しがあり、救いがある。それ故、主なる神が私達に求めるのは、ただ主なる神を信頼し、その恵みを受け取ることである。つまり、十字架による赦しと救いをいただくことだけである。主なる神の恵みは、人間の弱さや未熟さを遥かに超えて大きい。

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聖書日課 士師記13章

聖書日課 士師記13章(新共同訳 旧約pp.404-406)

 士師記の最後に登場する士師は、サムソンである。彼は士師の中で最もよく知られている人物だろう。他の士師と違って、サムソンに関しては、その誕生の出来事から成人してからの活躍まで、かなり詳細に記されている。その意味で、士師の〈代表〉のような存在と言ってもいいかも知れない。

 サムソンの母は、ダン族に属する「マノアという一人の男」の妻だった。しかし、不妊のため、長い間「子を産んだことがなかった」(2節)。ところが、突然「主の御使いが彼女に現れ」、次のように告げた。

「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。だが、身ごもって男の子を産むであろう。……彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」(3~5節)。

 驚いた彼女が、夫マノアに事の次第を告げると、マノアは主に向かってこう祈った。

「わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください」(8節)。

 マノアは、主なる神と向き合い祈ることを知っていた。主は彼の祈りを「お聞き入れになり」、再び御使いを遣わして下さった(9節)。マノアが御使いに名前を尋ねると、御使いは自分の名は「不思議」であると答えた。

「そこでマノアは主の御使いに、『お名前は何とおっしゃいますか。お言葉のとおりになりましたなら、あなたをおもてなししたいのです』と言った。主の御使いは、『なぜわたしの名を尋ねるのか。それは不思議と言う』と答えた。マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。すると、祭壇から炎が天に上るとき、主の御使いも、その祭壇の炎と共に上って行った。マノアとその妻はそれを見て、ひれ伏して顔を地につけた。主の御使いは再びマノアとその妻に現れることがなかった。マノアはそのとき、この方が主の御使いであったことを知った」(17~21節)。

「不思議」という名前は、主なる神が「不思議なことをなさる方」であること、主の御業が人知を遥かに超えたものであることを表している。そして、主なる神がなさる「不思議なこと」には、私達がワクワクするほど大きな恵みが隠されている。主なる神は、私達が考えたり計画したりするよりも、遥かに大きくて素敵なご計画を立てて下さっている。何故なら、主なる神は私達を命懸けで愛して下さっているからである。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソの信徒への手紙3章18~19節)。

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聖書日課 士師記12章

聖書日課 士師記12章(新共同訳 旧約pp.403-404)

 ギレアド人エフタが「アンモン人との戦い」に勝って、イスラエルを治めるようになった時、「エフライム人が勢ぞろいして」エフタに不満を述べた。

「アンモン人との戦いに出向いたとき、なぜあなたは、わたしたちに同行を呼びかけなかったのか。あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる」(1節)。

 自分達は戦っていないにもかかわらず、自分達に声をかけなかったと、エフタに文句を言っているのである。いや、文句だけでなく、「あなたの家をあなたもろとも焼き払ってやる」とエフタに脅しをかけてきた。

 エフライム族は、イスラエルの中で最も大きな部族だった。彼らは、約束の地カナンの中心に位置する土地に住んでいたこともあり、イスラエルの盟主としての誇りを持っていた。それ故、ギレアド人エフタがイスラエルを治めるようになったことに我慢がならなかったようである。

「エフタは彼らに言った。『わたしとわたしの民がアンモン人と激しく争っていたとき、あなたたちに助けを求めたが、敵の手からわたしを救ってくれなかった。あなたたちが救ってくれることはないと思い、わたしは命がけでアンモン人に向かって行った。主は、わたしの手に彼らを渡してくださった。どうして今日になってわたしに向かって攻め上り、戦おうとするのか。』エフタはそこでギレアドの人をすべて集めて、エフライムと戦い、ギレアドの人はエフライムを撃ち破った。エフライムが、『あなたたちはエフライムを逃げ出した者。ギレアドはエフライムの中、マナセの中にいるはずだ』と言ったからである」(2~4節)。

 自己中心、高慢不遜が、国中に蔓延る。それは、主なる神から離れてしまった時代の特徴と言ってよいだろう。そのため、士師の時代は、外の敵との戦いだけでなく、内紛の絶えない時代でもあった。そして、こういった傾向は、ますます強くなり、士師記の最後の数章には、イスラエル内部で起こった恐ろしい事件が記されている。

 いつも共にいて下さる主なる神に目を向けること、主なる神の御前に謙遜に歩むこと、決して主なる神から離れないこと、そこに真の平和と勝利の祝福があることを忘れずにいたい。

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聖書日課 士師記11章

聖書日課 士師記11章(新共同訳 旧約pp.401-403)

 士師エフタの話は、何とも愚かで悲しい物語である。

「ギレアドの長老たち」の要請を受けて(6節、8節)、エフタは、アンモン人と戦うために「兵を進めた」。この時、「主の霊がエフタに臨んだ」と聖書は記している。これは、勝利の〈しるし〉或いは〈保証〉とも言えるものであった。

「主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた」(29節)。

 にもかかわらず、「エフタは主に誓いを立てて言った」

「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」(30~31節)。

 これは、一見主なる神に対する勇ましい信仰の誓いのように思われる。しかし、実は主なる神との〈取り引きの祈り〉である。「~をするので、…を下さい」というギブ・アンド・テイクの取り引きは、人間同士のやり取りではよくあることだが、主なる神の恵みに生かされる生き方とは違うものである。そこには、人間の努力によって主なる神の恵みを得ようとする誤解があり、力みがある。

 勿論、これは不信仰とか罪ということではないだろう。もしそうなら、主はエフタに勝利をお与えにならなかったに違いない。

「こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった」(32節)。

 エフタは確かに勝利した。しかし、この時、エフタを迎えて家の戸口から出て来たのは、何と彼の「一人娘」だった!

「エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった」(34節)。

 こうして、エフタは、自分のした誓いによって最も大切なものを失うことになってしまった(39節)。

 これは決して主なる神が求めたものではない。主なる神は、エフタが誓う前から、「主の霊」を注いで下さっていた。主の恵みは始めからそこにあった。しかし、エフタはそのことを理解していなかった。主の恵みを知らないことの悲劇がここにある。私達は、もっともっと主なる神の大いなる恵みに満たされ、生かされる者でありたい。

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聖書日課 士師記10章

聖書日課 士師記10章(新共同訳 旧約pp.399-400)

 ギデオン一族の盛衰の後、トラ、続いてヤイルが士師として立って、イスラエルを治めた(1~5節)。しかし、彼らが死ぬと、イスラエルは再び「主の目に悪とされることを行い」、自分達の主を捨てて異教の「神々に仕え」るようになってしまった(6節)。

「またか!」と言いたくなる。新共同訳は、この箇所に〈イスラエル罪と罰〉という表題を付けている。罪を犯せば、罰を受ける。これは当然のことである。イスラエルは、そのためにペリシテ人とアンモン人の手」によって苦しめられた(7節)。

 しかし、士師記の〈ワンパターン〉は、ここで終わらないところが大切である! この苦しみの中で、イスラエルの人々が主なる神への祈りを取り戻し、主なる神へと立ち帰ると、主なる神は、彼らを憐れみ、彼らに再び助けの手を差し伸べた。

イスラエルの人々は主に言った。『わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。』彼らが異国の神々を自分たちの中から一掃し、主に仕えるようになり、主はイスラエルの苦しみを見るにしのびなくなった」(15~16節)。

「そんなこと、もう知っている!」と言わないでいただきたい。ここで確認したいのは、主なる神が下される罰は、単なる裁きや報復ではなく、どこまでも人々を救うため、赦すため、回復するためのものだということである。主なる神の御心は、いつも救いにあり、赦しにあり、祝福にある。何故なら、主なる神は、人々を祝福したくてしようのない御方であり、イスラエルの苦しみを見るにしのびな」い御方だからである。こういう面をしっかり理解していないと、主なる神が、いつも罪人に罰を下す恐ろしい裁きの神としか見えなくなってしまう。

 今あなたにとって、主なる神はどのような方だろうか。恐ろしい裁きの神だろうか? それとも、慈しみ深く、憐れみに富む、恵みと愛の神だろうか?

 繰り返される士師記のパターンの中に、人間の愚かさを包み込んでしまう主なる神の恵みと愛を再確認したい。

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聖書日課 士師記9章

聖書日課 士師記9章(新共同訳 旧約pp.396-399)

 多くの妻と多くの息子達がいたギデオンの一族は、人の奢り高ぶりの象徴と言ってもよいものだった。そして、奢りは、必ず混乱と滅びをもたらす罠となる。栄華を誇ったソロモン王が、多くの妻の故に偶像を取り入れて、王家と国家に大混乱をもたらしたように、ギデオンの高ぶりは、一族の衰退と国家の混乱をもたらすことになった。

 その主役はギデオンの側女の子アビメレクである。彼の母はシケム出身の女奴隷だった。アビメレクは自分の出自に対する劣等感から、他の息子達に対して歪んだ感情を抱いていたものと思われる。

 或る日、彼は、シケムの人々の身内意識に訴えて、自分をイスラエルの支配者とするよう持ちかけ(2節)、神殿から得た「銀」「ならず者を数名雇い入れ」た(4節)。そして、自分の兄弟達を集めて、皆殺しにしてしまった(5節)。

 この時、その惨事から一人だけ「生き延びた」「末の子ヨタム」が、叫んで言った。

「もし今日、あなたたちがエルバアルとその一族とに対して誠意をもって正しく行動したのなら、アビメレクと共に喜び祝うがよい。彼もまたあなたたちと共に喜び祝うがよい。もしそうでなければ、アビメレクから火が出て、シケムの首長たちとベト・ミロをなめ尽くす。またシケムの首長たちとベト・ミロから火が出て、アビメレクをなめ尽くす」(19~20節)。

 そして、それから僅か3年後、ヨタムの言葉通り、アビメレクと「シケムの首長たち」は仲間割れを起こし、互いに争い、滅んでいった。

「一方、アビメレクは三年間イスラエル支配下においていたが、神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった。こうしてエルバアルの七十人の息子に対する不法がそのままにされず、七十人を殺した兄弟アビメレクと、それに手を貸したシケムの首長たちの上に、血の報復が果たされることになる」(22~24節)。

 アビメレクもシケムの人々も死んだ後、聖書は、この出来事について次のように記している。

「神は、アビメレクが七十人の兄弟を殺して、父に加えた悪事の報復を果たされた。また神は、シケムの人々の行ったすべての悪事にもそれぞれ報復を果たされた。こうしてシケムの人々は、エルバアルの子ヨタムの呪いをその身に受けることとなった」(56~57節)。

 傲慢と歪んだ感情は、周りの人々に不幸をもたらすだけでなく、結局、自分自身を不幸に陥れる。

「破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜」(箴言18章12節)。

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聖書日課 士師記8章

聖書日課 士師記8章(新共同訳 旧約pp.394-396)

 イスラエルの人々が、長年の宿敵「ミディアン人」を打ち破ったギデオンに、自分達を「治めて」もらいたいと願い出るのはごく自然なことであった。

「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください」(22節)。

 しかし、ギデオンはその申し出を断った。

「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」(23節)。

「主があなたがたを治められる」。「さすが信仰の勇者ギデオン。素晴らしい謙遜の姿…」と言いたいところだが、実はそうでもなかった。

 その代わりに、ギデオンは、人々に「戦利品の耳輪」を要求した。

「あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい」(24節)。

 勿論人々は喜んでギデオンの申し出に応えた。こうして集まった耳輪などの「金」で、ギデオンは「エフォド」(大祭司が着用する服)を作り、「自分の町オフラに置いた」

「人々は、『喜んで差し上げます』と答え、衣を広げて、そこに各自戦利品の耳輪を投げ入れた。彼の求めに応じて集まった金の耳輪の目方は、金千七百シェケルで、そのほかに三日月形の飾り、垂れ飾り、ミディアンの王たちがまとっていた紫布の衣服、らくだの首に巻きつけてあった飾り物があった。ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、自分の町オフラに置いた」(25~27節)。

 実は、これがイスラエルにとっても、「ギデオンとその一族にとって」も大きな「罠となった」

「すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった」(27節)。

 恐らくギデオンは、大祭司が着る「エフォド」を自分のために作り、個人崇拝を励行したのだろう。こうして、自分の家に帰った彼は、「多くの妻」「側女」を娶り、「七十人」もの「息子」をもうけた。その姿はあたかも王のように見えたことだろう。

 つまり、信仰の勇者ギデオンは、主に栄光を帰することが出来なかった。そして、その高ぶりが、やがてギデオンの一族とイスラエル全体に大きな災いをもたらすことになった。まさに「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊」と言われている通りのことが起きてしまったのである(箴言16章18節)。

「主は不遜な者を嘲り/へりくだる人に恵みを賜る」(箴言3章34節)。

 この御言葉が真理であることを、しっかり心に刻みたい。

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聖書日課 士師記7章

聖書日課 士師記7章(新共同訳 旧約pp.392-393)

 いよいよミディアン人との決戦の時がやって来た。ギデオンに率いられたイスラエルは、「エン・ハロド」という泉の「ほとりに陣を敷い」て、北の「平野」に陣取るミディアン人と相対した。

 ところが、この時、主なる神は不思議なことをギデオンに言われた。

「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない」(2節)。

 これは一体どういうことだろうか。人数が多いと、動きが鈍くなるからだろうか? それとも、既に敵よりも多くの兵がいたからだろうか?

 いいえ、敵の数はイスラエルよりも遥かに多かった。では、どうして主なる神はこのようなことを言われたのか? その理由について主は次のように言われている。

「渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」(2~3節)。

 人数が多いと、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」と主なる神は言われる。とはいえ、少人数で勝ったら、もっと傲慢になる可能性があるのではないか?

 実は、問題は人の数ではなく、人の心、人の態度にあった。この時、主なる神は、「恐れおののいている者」を帰すよう命じられている。それは「恐れおののいている者」がいたのでは勝てないからではない。彼らの「心がおごり、自分の手で救いを勝ち取った」と言い出しかねないからである。つまり、不信仰な者、主なる神への信頼を欠いた者は、もし勝利すれば、自分を誇るようになる危険性があった。

 こうして、最終的には、主に信頼する「三百人」の兵士が残された(7節)。僅か「三百人」…しかし、それで良いのである。元々イスラエルの戦いは主の戦いであり、人数は全く関係ない。大切なのは、主なる神への信頼と従順である。主なる神の真理を深く理解し、主の力を信頼して歩むことが大切であった。神の民の勝利は、信仰による勝利であり、主の力による勝利であり、主なる神の勝利なのだから。

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聖書日課 士師記6章

聖書日課 士師記6章(新共同訳 旧約pp.389-392)

 ギデオンと言えば、〈信仰の勇者〉の代名詞のような士師である。何と言っても、僅か300人の手兵で、数万人もの敵を打ち破ったのだから!

 しかし、最初から強かったかと言うと、意外にもそうではなかった。彼は敵である「ミディアン人」の来襲を恐れて、「酒ぶねの中」に隠れて「小麦を打っていた」

「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(11節)。

 ところが、そのようなギデオンのもとに「主の御使い」「現れて言った」

「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)。

 敵を恐れて隠れているような者に対して「勇者」と言うのは、何かおかしな感じがする。言われたギデオン自身も、そう感じたようで、彼は主の御使いに言った。

「わたしの主よ、お願いします。しかし、どうすればイスラエルを救うことができましょう。わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」(15節)。

 疑問、不満、劣等感…、この時ギデオンの心は、そのような否定的な思いでいっぱいだった。

 しかし、そのようなギデオンに、主はなおこう言われた。

「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。…わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」(14節、16節)。

 主が私と「共にいる」。主が私を「遣わす」。力の根源、勝利の根拠は、ここにある。私達の目に見えるところがどんなに弱くても、どんなに小さくても、一切関係ない。私達を命がけで愛して下さる主なる神に信頼し、その恵みと平安に包まれて、安心して導きのままに進んで行けばよい。私達を愛しておられる主なる神は、私達が不信や恐れではなく、愛と信頼によって力強く生きるよう、導き、守り、祝して下さる。その主に、全幅の信頼をおいて生きていこう!

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聖書日課 士師記5章

聖書日課 士師記5章(新共同訳 旧約pp.386-389)

「カナンの王ヤビン」とその「将軍シセラ」との戦いに勝利したデボラは、「主に向かって」「賛美の歌」「歌った」

「デボラとアビノアムの子バラクは、その日次のように歌った。イスラエルにおいて民が髪を伸ばし/進んで身をささげるとき/主をほめたたえよ。もろもろの王よ、聞け/君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かって/わたしは賛美の歌をうたう」(1~3節)。

 興味深いのは、この歌の中に3人の女性が登場することである。一人は、イスラエルを勝利に導いたイスラエルの母」デボラ(7節)、もう一人は、敵方の将軍シセラを殺害した「カイン人ヘベルの妻ヤエル」、そしてもう一人は「シセラの母」である(28節)。

「女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女。水を求められて/ヤエルはミルクを与えた。貴人にふさわしい器で凝乳を差し出した。彼女は手を伸ばして釘を取り/職人の槌を右手に握り/シセラの頭に打ち込んで砕いた。こめかみを打ち、刺し貫いた。彼女の足もとに、シセラは/かがみこみ、倒れ、伏した。彼女の足もとに、彼は/かがみこみ、倒れた。かがみこみ、そこに倒れて息絶えた」(24~27節)。

 実際の戦闘は、男性が指揮し、担った。しかし、その背後には、女性達の存在があり、支えがあった。この歌は、そのような視点に立って歌われている。

 聖書は男尊女卑の書物であると批判されることがある。女は最初の人アダムから「抜き取ったあばら骨」「彼に合う助ける者」として造られたとか(創世記2章18節、22節)、人数を数える時に、男性しか数えないとか…。聖書は女性の価値を低く考えているのだろうか。

 いいえ、決してそのようなことはない。聖書は男も女も主なる神の前に平等で価値ある存在であるとしている。勿論、性別から来る役割の違いはある。だが、聖書の中には、信仰深い女性達の活躍が数多く記されている。アブラハムの妻サラ、その子イサクの妻リベカ、モーセの姉ミリアム、イスラエルの斥候を匿ったラハブ、ボアズの妻ルツ、サムエルの母ハンナ、ユダヤ人皆殺しの陰謀から同胞を救った王妃エステル、イエス・キリストの母マリア、マグダラのマリア、マルタとマリアの姉妹、アクラの妻プリスキラ…、他にも沢山挙げることが出来る。聖書を読むにあたっては、主なる神のご計画が女性を用いて進められたことへの理解も重要である。大切な示唆を得られるに違いない。

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