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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

聖書日課 士師記11章

聖書日課 士師記11章(新共同訳 旧約pp.401-403)

 士師エフタの話は、何とも愚かで悲しい物語である。

「ギレアドの長老たち」の要請を受けて(6節、8節)、エフタは、アンモン人と戦うために「兵を進めた」。この時、「主の霊がエフタに臨んだ」と聖書は記している。これは、勝利の〈しるし〉或いは〈保証〉とも言えるものであった。

「主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた」(29節)。

 にもかかわらず、「エフタは主に誓いを立てて言った」

「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします」(30~31節)。

 これは、一見主なる神に対する勇ましい信仰の誓いのように思われる。しかし、実は主なる神との〈取り引きの祈り〉である。「~をするので、…を下さい」というギブ・アンド・テイクの取り引きは、人間同士のやり取りではよくあることだが、主なる神の恵みに生かされる生き方とは違うものである。そこには、人間の努力によって主なる神の恵みを得ようとする誤解があり、力みがある。

 勿論、これは不信仰とか罪ということではないだろう。もしそうなら、主はエフタに勝利をお与えにならなかったに違いない。

「こうしてエフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった」(32節)。

 エフタは確かに勝利した。しかし、この時、エフタを迎えて家の戸口から出て来たのは、何と彼の「一人娘」だった!

「エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった」(34節)。

 こうして、エフタは、自分のした誓いによって最も大切なものを失うことになってしまった(39節)。

 これは決して主なる神が求めたものではない。主なる神は、エフタが誓う前から、「主の霊」を注いで下さっていた。主の恵みは始めからそこにあった。しかし、エフタはそのことを理解していなかった。主の恵みを知らないことの悲劇がここにある。私達は、もっともっと主なる神の大いなる恵みに満たされ、生かされる者でありたい。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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