ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 出エジプト記35章

聖書日課 出エジプト記35章(新共同訳 旧約pp.153-154)

 いよいよ幕屋建設のための準備が始まった。イスラエルの民は一旦偶像礼拝の罪に陥ってしまった。しかし、モーセの執り成しによって、主なる神は再びイスラエルの民と共にいて、約束の地へと伴って下さることになった。

 悔い改めと信仰によって、主の臨在を回復したイスラエルの人々は、赦されている喜び、愛されている喜びを、どんなに深く実感したことだろう! 彼らは皆、主なる神の恵みと愛に満たされて、新たな一歩を歩み出そうとしていた。

 主なる神の御住まいである幕屋は、そのような多くの人々の喜びと感謝の心が合わせられた時に建てられた。

 イスラエルの人々は「心動かされ」「男も女も」「指導者たち」も一般人も、皆それぞれ、自分に出来ることを「進んで心から」奉仕した。主なる神の幕屋は、このような人々の奉仕によって建てられた。

イスラエルの人々の共同体全体はモーセの前を去った。心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。進んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた。青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、およびじゅごんの皮を持っている者も皆、それを携えて来た。銀や青銅を献納物としようとする者は皆、それを主への献納物として携えて来た。また、アカシヤ材を持っている者は皆、奉仕の仕事のためにそれを携えて来た。心に知恵を持つ女は皆、自分の手で紡ぎ、紡いだ青、紫、緋色の毛糸および亜麻糸を携えて来た。心動かされ、知恵に満ちた女たちは皆、山羊の毛を紡いだ。指導者たちはエフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類、香料、灯油、聖別の油、および香草の香を携えて来た。モーセを通じて主が行うようお命じになったすべての仕事のために、進んで心からするイスラエルの人々は、男も女も皆、随意の献げ物を主に携えて来た」(20~29節)。

 奉仕や献げ物は、決して義務や強制ではない。主なる神に赦されている平安、愛されている喜びに満たされた者がする、感謝と賛美の応答である。私達が持っているものは、全て主なる神が与えて下さったものである。主なる神は、私達の必要を満たして下さった。全てのものは、本来主なる神のものである。

 そのような理解と感謝の心に溢れて、「進んで心からする」もの、それが奉仕であり、献げ物である。仕える喜び、献げる喜びに満たされて生きたいものである。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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聖書日課 出エジプト記33章

聖書日課 出エジプト記33章(新共同訳 旧約pp.149-150)

 モーセは必死に祈り求めた。主なる神がイスラエル「罪をお赦しくださる」ことを。そして、「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」と主なる神に迫った(32章31~32節)。主なる神は、モーセの願いを聞き入れ、イスラエルの民のために「使い」「遣わし」、敵を「追い出す」と言われた(2~3節)。

 それでもモーセは主なる神に祈り求めた。主なる神御自身が、イスラエルの民と約束の地に「共に行ってくださること」を。

モーセは主に言った。『もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう』」(15~16節)。

 実は、主なる神がこれ以上イスラエルの民と共におられたら、今度こそ頑なな彼らを滅ぼしかねなかった。しかし、モーセは、主がイスラエルの民と共に行って下さることを求めた。それは、主なる神の御臨在こそが神の民であることのしるしであり、主なる神がイスラエルの民に「御好意を示してくださる」ことの証しだったからである。

 主なる神は、今度もモーセの願いを叶えて下さった。

「主はモーセに言われた。『わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである』」(17節)。

 ところが、モーセは、主なる神に「どうか、あなたの栄光をお示しください」と更に祈り求めた(18節)。主なる神は、このモーセの祈りに「あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」と答えられた(23節)。何故後ろ姿なのか? 主なる神の栄光を目の当たりにすると、人は「生きていることはできないから」である(20節)。

 このように、モーセは、どこまでも主なる神に祈り求め続けた。厳しい荒れ野の旅路を上って行く中で、モーセが何よりも求めたのは、主なる神の御臨在だった。主が自分達と共にいて下さること、これがモーセの祈りであった。

 私達の生きる現実も、厳しく険しい戦いのように思われることがある。だからこそ、私達もまた、日々主の御臨在を祈り求め、主が共にいて下さる平安と力に満たされて戦いの現場に出て行くことが必要なのではないか。

西原新生バプテスト教会
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2022年1月2日(日) 週報

2022年1月2日(日) 降誕節第2主日(新年礼拝)

○礼拝プログラム
招詞 詩編96編1~2節
讃美 61(かがやくみとのよ 汝が戸をひらけ)
交読 エレミヤ書16章14~21節(新共同訳 旧約pp.1207-1208)
主の祈り
聖書拝読 マルコによる福音書1章14~20節(新共同訳 新約pp.61-62)
祈り 司式者
讃美 281(いざ主の御腕よ、ちからを示し)
宣教 「福音のスタート」柏本隆宏協力牧師
讃美 228(ガリラヤの風 かおるあたり)
祈り
奉献
頌栄 545(父の御神に、み子に、きよき御霊に)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○報告
1. 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。2022年、私達の教会は伝道開始50周年を迎えます。今年が勝利の年となることを祈りつつ礼拝を献げましょう。

2. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

3. 11月よりバプテスマ準備クラスを開始しました。バプテスマに向けての準備の一つ一つの上に、聖霊のお守りとお導きがありますようお祈り下さい。

4. 12月31日(金)祈祷会を久しぶりに行うことが出来ました。今後も、毎日・毎週会堂に集まるのは難しいですが、祈祷会を行っていきます。その一方で、日常生活の中で聖書通読と祈りを大切にし、新しい年を御言葉と祈りをもって始めましょう。

5. 1月9日(日)、今年一年間の保護と祝福を祈願して聖餐式が行われます。今年も十字架の恵みの内に過ごしましょう。また、礼拝後、クリスマスの装飾の片付けと会堂の清掃を行います。皆で心を合わせて、教会の内外を綺麗に致しましょう。

6. 福間キリスト教(福岡県)の田宮宏介牧師から教会宛てにお菓子をいただきました。お礼の電話を差し上げた際、福岡新生キリスト教の竹田耶子武副牧師と共に、私達の教会のことをお祈り下さったと伺いました。また、牧師不在期間、主日礼拝や寺澤前牧師の告別式でお助けいただいた黎明宣教会の日高ルツ宣教師、中城城東バプテスト教会の名護良健名誉牧師、日本基督教団の芳澤弘和牧師に、新年の挨拶と共にクリスマスカードをお送りし、感謝の気持ちを伝えました。2021年は、各地の教会、主にある兄弟姉妹が、私達の教会を祈りに覚えて下さり、コロナ禍の中にあっても孤立を避けることが出来ました。お祈りとご支援に心より感謝申し上げると共に、主の平安と祝福が豊かにありますようお祈り致します。

7. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
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○トラクト配布について 2021年度: 2,265部(2022年1月2日時点)
教会周辺 50部
教会~小橋川公民館 道路沿い 50部
国道329号線沿い(西原シティ~内間バス停) 25部
西原東小学校周辺 150部
西原町役場周辺(西原町与那城) 95部
西原台団地 95部
県営与那原第二団地(与那原町板良敷) 50部
中城村南上原 50部
与那古浜公園周辺(与那原町東浜) 100部
西原高校周辺 350部
琉球大学病院周辺(西原町上原) 50部
琉球大学教育学部附属小学校周辺(西原町千原) 140部
首里駅周辺 215部
石嶺団地周辺(首里石嶺町) 150部
県営幸地高層住宅(西原町幸地) 50部
首里高校周辺 75部
浦添前田駅周辺 150部
経塚駅周辺 180部
儀保駅周辺 65部
市立病院前駅周辺(首里末吉町) 145部
旭橋駅周辺 25部

○聖書日課
2日(日) 出エジプト記32章
3日(月) 出エジプト記33章
4日(火) 出エジプト記34章
5日(水) 出エジプト記35章
6日(木) 出エジプト記36章
7日(金) 出エジプト記37章
8日(土) 出エジプト記38章

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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聖書日課 出エジプト記32章

聖書日課 出エジプト記32章(新共同訳 旧約pp.147-149)

 緊急事態発生! イスラエルの民が、偶像礼拝の罪に陥ってしまった!

 それは、モーセシナイ山に登って、主なる神から律法と幕屋についての指示を受けている40日の間に生じた。イスラエルの民は、モーセが山からなかなか下りて来ない」ので(1節)、不安になり、アロンにせがんで金の「若い雄牛の鋳像を造」らせ、それを拝み、乱痴気騒ぎを始めた(3~6節)。

 リーダーが不在のために不安になることは理解出来る。しかし、彼らは、出エジプトの出来事を通して、主なる神が共にいて守り導いて下さることを体験的に知っていた筈である。そればかりか、彼らは主なる神の御声を直接聞くという経験さえしていた。

 しかし、体験や経験は、決して信仰の土台ではない。信仰とは、目には見えなくても、手で触れることが出来なくても、また状況がどうであれ、ただ主なる神の約束の言葉に信頼して従うこと、そして待つことである。その点で、イスラエルの人々は、まだ主なる神の言葉に賭けて生きる決意、或いは覚悟が出来ていなかったのかも知れない。

 偶像礼拝に走った人々の乱痴気騒ぎを見て、モーセは深く憤った。

モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、宿営の入り口に立ち、『だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ』と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、彼らに、『イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』』と命じた。レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。モーセは言った。『おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける』」(25~29節)。

 モーセ「宿営の入り口に立」って言った。「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」

 この呼びかけに応じて集まってきたのがレビ族の人々だった。彼らは、「主につく」ことを決心したのである。そして、主の命令に従って、偶像礼拝に走った人々を滅ぼした。こうして、この日、「およそ三千人」の人々が倒された。

 彼らの決心と行動の故に、主なる神はレビ族を祝福し、彼らを主の臨在の幕屋で仕える「祭司職に任命」した。レビ人の働きは、ここから始まった。

「主につく者」となる。信仰には、この決心が必要である!

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主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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2021年12月31日(金) 祈祷会 祈りの課題

2021年12月31日(金) 祈祷会
●祈りの課題

〈主の祈り〉
 天におられる私達の父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。御心が天に行われる通り、地にも行われますように。私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい。私達の罪をお赦し下さい。私達も人を赦します。私達を誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい。国と力と栄光は、とこしえにあなたのものです。アーメン。

〈各自の祈り〉
■讃美(主なる神をたたえる祈り)
・2022年、西原新生バプテスト教会は伝道開始50周年を迎えます。私達の教会の歩みに、常に寄り添って下さった主イエス・キリストの御名をほめたたえます。

■感謝
・様々な出来事に直面したこの1年間、いただいた恵みに感謝して。
・3月8日、眠りにつかれた寺澤征一前牧師のご奉仕に感謝して。1972年の伝道開始以来、寺澤前牧師は長年にわたり私達の教会を導かれ、病を得てからも一層力強く愛情をもって私達をお導き下さいました。これより後も私達が主にあっていかなる困難も乗り越えていくことが出来ますように。
・牧師不在期間、各地の主にある兄弟姉妹が、私達の教会のことを案じ、祈りに覚えて下さり、孤立を避けられたことに感謝して。2022年も神の家族として生きる喜びを深めていけますように。
西原町にお住まいの方が、昨秋から続けて礼拝に出席され、バプテスマ準備クラスを開始しました。バプテスマに向けての準備の一つ一つの上に、聖霊のお守りとお導きがありますように。

■告白(罪の悔い改め)
・自分の生き方を悔い改め、正しいことを行う勇気を私達にお与え下さい。主が望まれる義の道を歩むことが出来ますように。

■願い
西原新生バプテスト教会
1. 2021年度年間テーマ「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア記1章5~6節)のために。
・聖書を通して語られる主なる神の御言葉の真理を悟らせて下さい。イエス・キリストに招かれて弟子となった私達が、移ろいゆく現代社会の中で、揺るがない心で主の福音を告げ知らせることが出来ますように。
・惜しみなく御子イエス・キリストを与えて下さった主なる神の愛を、私達がいつも心に留め、全てを献げる愛をもって歩んでいくことが出来ますように。
・2022年を迎える私達を希望で満たして下さい。人の思いを超えて、救いを実現される主なる神に信頼して生きることが出来ますように。
・御子イエス・キリストの到来を信じる私達が、世界の困難な現実を前に挫けることなく、希望のうちに祈り続けることが出来ますように。

2. 次週の主日礼拝の祝福のために
・新来者が与えられ、求道者、霊的決心者が起こされますように。

3. 教会全体の祝福のために
・西原新生バプテスト教会が、また私達一人一人が、〈十字架の民・御言葉の民・祈りの民・世界伝道の民〉であるという〈新生の民〉としての原点を忘れず、私達に与えられている使命を見失うことなく、主なる神がお示しになった道を共に歩むことが出来ますように。
・全てを超える主なる神の計らいに、私達の心を開かせて下さい。主なる神から遠ざかる思いや考えを退け、愛をもって支え合うことが出来ますように。
・教会の財政(月約献金、席上献金、ゆいまーる献金、各献金)の祝福のために。
・ブログやトラクトなどのツールが、主なる神によって用いられますように。

4. 教会の奉仕者のために
・柏本協力牧師が、イエス・キリストにしっかりと目を向け、主なる神の御言葉をまっすぐに語ることが出来ますように。
・制約の多い中、教会の活動のため、ご奉仕下さっている執事、会計の兄弟姉妹に心から感謝致します。皆が心を合わせて、主のご栄光のために力を尽くすことができますように。

5. 協力伝道の祝福のために
・全国各地にある〈新生の民〉のエクレシアと愛泉祈祷院のために。
・〈新生の民〉のエクレシアがタイ、ドイツ、中国に送り出している黎明宣教会の宣教師の方々、また日本バプテスト連盟がインドネシアカンボジアに派遣している宣教師の方々を覚えて。主から力を与えられて、福音を届ける任務を遂行することが出来ますように。
・日本バプテスト連盟の教会・伝道所のために。特に、那覇新都心キリスト教を覚えて。

■執り成し
西原新生バプテスト教会
1. 病気で苦しんでいる兄弟姉妹とそのご家族のために
2. 礼拝を長く休まれている兄弟姉妹のために。長びくコロナ禍をはじめ、様々な事情で主日礼拝に足を運べずにいる兄弟姉妹が、主なる神からの愛の恵みに満たされて降誕節を過ごすことが出来ますように。
3. 家族や隣人の救いのために。

沖縄
1. 沖縄の地が主なる神によって本物の〈神の島〉として用いられますように。主が望まれる生き方へと、一人でも多くの方が召されますように。
2. 戦争による惨禍が沖縄の地で再び起こることがありませんように。
3. 孤立の状態から助けを求めている人々を顧み、不安から解放して下さい。周りにいる一人一人が友となって支えていけますように。

日本
1. 新型コロナウィルスの感染の流行が一日も早く収束しますように。
2. 市民の健康と安全のために働く人々を祝福と恵みで満たして下さい。隣人を思う、懸命な努力が多くの実を結びますように。
3. 社会の中で異なる文化や背景を持った人々が、互いの存在を恵みとして受け入れ、相互の理解と交わりを深めていくことが出来ますように。

世界
1. クリスマスを迎え、私達の心は希望に満ちています。しかし、世界には暗闇の中に苦しんでいる兄弟姉妹が多くいます。どうか彼らにも希望の光、愛の慰め、信仰の励ましが届けられますように。
2. 御心に適う正しい道を求めている全ての人を強めて下さい。不安な時も、主なる神への信頼と愛をもって歩んでいくことが出来ますように。
3. 紛争や内戦が続いている地において、一日も早く平和が実現しますように。
4. 権力の横暴によって命の尊厳を脅かされている人々を、主が守って下さいますように。

聖書日課 出エジプト記31章

聖書日課 出エジプト記31章(新共同訳 旧約p.146)

 31章は、内容的に2つに分けられる。前半は、幕屋と祭司に関わる一切の物を作成する技術者の任命である。はじめに「ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエル」が指名され(2節)、更に「ダン族のアヒサマクの子オホリアブ」がその助手として主なる神によって任命された(6節)。当然、彼らは熟練した技術者であった。興味深いのは、彼らは「神の霊」「満た」されていたと書かれていることである(3節)。

「主はモーセにこう仰せになった。見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる」(1~6節)。

 主なる神の御業を果たすことにおいては、単に技術的に優れているだけでは、用いられない。勿論熟練は大切である。必要でもある。しかし、それと共に、いやそれ以上に重要なのは、「神の霊」「満た」されていることである。聖霊の満たしがなければ、主なる神の用に足る者とはなれないからである。また、人間の知恵や能力では果たすことが出来ない業だからである。主なる神の導きと知恵に従ってこそ、主なる神の御業は成し遂げられる。それ故、どんな熟練者も、主の御前にひれ伏し、主の導きと知恵をいただく姿勢を求められる。

 後半は、安息日を厳守せよとの教えである。

「主はモーセに言われた。あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである」(12~13節)。

 どうして幕屋の指示の後に、再び安息日を守らねばならない」と命じられたのだろうか。それは、幕屋が〈場所〉の聖別であるのに対し、安息日は〈時〉の聖別だったからである。

 神の民は、空間を聖別すると共に、時間を聖別することを求められる。聖別とは、人や物を他のものと分けて、主なる神のものとすることであるが、足だけ主なる神のものとなって、手は自分のもののままというのは、聖別に相応しくない。全身全霊が主のものとなる。そして、場所も時も全てが主のものとされることが、神の民のしるしである。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

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祈祷会奨励 2021年12月31日

祈祷会奨励 2021年12月31日
ヘブライ人の手紙13章8節、ペトロの手紙一1章24~25節(新共同訳 新約p.419, 429)
「いつまでも変わらないもの」
新生讃美歌: 298「十字架の影に」、521「キリストには替えられません」

 この世のものは移り変わり、過ぎ去って行く。形あるもの、目に見えるものはやがて過ぎ去り、消えて行く。また人は変わり、人の考えも変わる。更に、悲しいことに人の心も変わっていく。しかし、いつまでも変わらないものがある。それはイエス・キリストである。イエス・キリストは、世の全てのものが変わり、また過ぎ去っても、永遠に変わらない御方である。

1. 変わらない言葉

 第一に、イエス・キリストの言葉は変わらない。聖書はこう言っている。

「主の言葉は永遠に変わることがない」(ペトロの手紙一1章25節)。

「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイによる福音書24章35節)

 人間の言葉や約束は簡単に変わる。また、その主義主張も変わる。或る時代には、真理と思われたことも、今では間違いと言われることがよくある。しかし、イエス・キリストの言葉はそうではない。その教えと約束はいつまでも変わらない。だから、この移ろい易い世にあって、私達が何よりも信頼出来るのは、イエス・キリストの御言葉である。

2. 変わらない愛

 第二に、イエス・キリストの愛も変わらない。聖書はこう言っている。

「山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず/わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないとあなたを憐れむ主は言われる」(イザヤ書54章10節)。

 人間の愛は、条件付きだから相手によって変わっていく。しかし、イエス・キリストの愛は絶対的な愛だから、相手が誰であっても、また相手の態度がどうなっても、決して変わらない。イエス・キリストは十字架につけられた時、ご自分を磔にし、罵っている者をも愛してこう言われた。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。

 自分の命を奪おうとしている者をも愛するイエス・キリストの愛は、いつまでも変わらない。
 この世は無情なもの、非情とも言えるもので、私達のことなどすぐに忘れて、横を通り過ぎていく。しかし、イエス・キリストは、私達の罪のために十字架にかかって下さり、「わたしの慈しみはあなたから移らず」「わたしがあなたを忘れることは決してない」と言われる(イザヤ書49章15節)。イエス・キリストに愛されていない人や覚えられていない人は一人もいない。イエス・キリストの愛は、永遠であり、全ての人に及んでいる。

3. 変わらない力

 第三に、イエス・キリストの力も変わらない。聖書はこう言っている。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章28~31節)。

 強大な権力と富を誇った王や王国も滅んでいった。しかし、イエス・キリストの力は少しも衰えない。それどころか、今もイエス・キリストを信じる多くの人や家庭を救い、変えられている。
 それは、イエス・キリストが私達の罪を負って十字架で死に、私達を贖われただけでなく、三日目に甦り、私達のために「執り成し」をして下さっているからである。イエス・キリスト「永遠に生きている」御方である。聖書はこう言っている。

「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」(ヘブライ人への手紙7章24~25節)。

 私はイエス・キリストに出会うまでは、平安のない人生を送っていた。移ろい易いこの世のものを当てにして生きていたからである。
 しかし、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを信じてから、いつまでもなくならない平安が心に与えられた。それは、イエス・キリストを信じてから私の心の深いところにずっとある、どんな時にもなくならない平安である。この移ろい易い世にあって、なくなることのない平安を心に持つためには、いつまでも変わることのないイエス・キリストを信じることが必要ではないか。

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ人への手紙13章8節)。

聖書日課 出エジプト記30章

聖書日課 出エジプト記30章(新共同訳 旧約pp.144-146)

「聖別」とは、人や物を他のものと分けて、特別に主なる神のものとすることである。主なる神は、幕屋で「罪の贖いの儀式」(10節)のために用いられる様々な用具、また儀式を執り行う祭司たちを皆、聖別するように命じている。

 そのために用いられたのが、「聖なる聖別の油」と呼ばれる特別仕立ての上質の油である(25節、31節)。

「主はモーセに仰せになった。上質の香料を取りなさい。すなわち、ミルラの樹脂五百シェケル、シナモンをその半量の二百五十シェケル、匂い菖蒲二百五十シェケル、桂皮を聖所のシェケルで五百シェケル、オリーブ油一ヒンである。あなたはこれらを材料にして聖なる聖別の油を作る。すなわち、香料師の混ぜ合わせ方に従って聖なる聖別の油を作る」(22~25節)。

「聖別の油」は、熟練した「香料師」にだけ作ることが許されており、また聖別のためにだけ用いることが許されていた。つまり、この油を「一般の人の体に注いだり、同じ割合のものを勝手に作」ることは固く禁じられており(32節)、もしそうした者がいた場合には、「その民から断たれる」とまで言われている(33節)。厳しい掟である。こういう記述を読むと、「どうしてそこまで厳格にする必要があるのだろう?」と訝しく思う人もいるかも知れない。

 主なる神はこう言われている。

「それは聖なるものであるから、聖なるものとして扱いなさい」(32節)。

 現代人の感覚からすれば、人や物を聖と俗に分けることは差別だと思われるかも知れない。しかし、私達現代人は、聖なるものへの恐れ(畏れ)を寧ろ忘れ去ってしまったのではないか。それは聖性の源である主なる神から離れてしまったことの結果であり、実は恐ろしいほどの傲慢さの現れなのではないか。

 勿論、人間が恣意的に聖と俗を区別するなら、そこに差別が生まれる。だからこそ主なる神は、厳密な規定を設け、人間の考えや方法ではなく、主なる神の方法で聖別するように命じられたのだろう。

 聖なる方への恐れ、聖なる神を畏れ敬い、大切にする心を、私達は持っているだろうか。それは、日々主なる神の御前にひれ伏し、祈ることを抜きに得ることの出来ない心であり、また、主なる神の御言葉を慕い求め、拠り頼み、聞き従うことなしに育てることの出来ない心である。

 ダビデ王は、そのような心を求めて祈った。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください」(詩編51編12~14節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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主日礼拝宣教 2021年12月19日

主日礼拝宣教 2021年12月19日
ルカによる福音書2章8~21節(新共同訳 新約p.103)
「クリスマスの祝い方」

 この世ではどのようにクリスマスが祝われているだろうか。多くの人は、家をクリスマスツリーやイルミネーションで飾ったり、ケーキやオードブルを買ったり、プレゼントを贈ったり、パーティーをしたりする。私自身もイエス・キリストを信じる前は、その程度の認識だった。しかし、子供の頃、「クリスマスとはそもそも何なのだろう」と考えさせられる出来事があった。
 私の父方の祖父は、家や伝統を重んじ、天皇陛下を尊崇し、神社への参拝を欠かさず、祝日になると必ず日章旗を掲げる人だった。そういう家庭環境だったため、幼い私が「クリスマスのお祝いをしたい」と言うと、祖父は「うちはキリスト教じゃないんだから、そんなもん必要ない」と一蹴された。私の方は、クリスマスの意味など知らず、単にパーティーがしたかっただけなので、両親が「ケーキは買ってあげるよ」と言うと、すぐに機嫌を直した。
 だが、今振り返ってみれば、祖父は私に反面教師的に〈信仰教育〉を行ったと言えるかも知れない。祖父は「キリスト教でない日本人が、クリスマスに騒ぐのは嘆かわしいことだ」とぼやいていたが、これは「キリスト教の信者こそクリスマスに騒ぐべき人、クリスマスを祝うべき人である」と裏返しで言っているからである。
 事実、私は、イエス・キリストが誰であるかが分かってから、クリスマスの祝い方が変わった。それだけではなく、聖書からクリスマスの祝い方を学んだ。では、それはどのようなものだろうか。

1. イエス・キリストを信じること

 聖書が教えるクリスマスの祝い方は、第一に、イエス・キリストを信じることである。クリスマスとは、イエス・キリストが私達の救い主としてお生まれになったことを喜び祝う日だからである。

「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(10~11節)。

 聖書によれば、私達人間は、主なる神によって造られた。にもかかわらず、主なる神を無視し、主なる神に背いて生きてきた。「自分は法律に触れるようなことはしていない」「誰にも迷惑をかけていない」と言う人がいる。しかし、主なる神から離れることを、聖書は〈罪〉と呼んでいる。主なる神はそのような私達を、ご自分のもとに立ち帰らせるために、御子イエス・キリストをこの世に送って下さった。
 イエス・キリストは、私達の罪を十字架で贖うために生まれて下さった。だから、イエス・キリストを自分の救い主として信じることが何よりも大切であり、信じてこそ本当のクリスマスをお祝いしたことになる。
 キリスト者になる前、私は、イエス・キリストを知らず、また無視した状態で、クリスマスを楽しんでいた。しかし、それは、何も残らない空しいクリスマスであった。
 イエス・キリストを信じてからのクリスマスは違っていた。イエス・キリストが私を罪から救うために生まれて下さったことを、心から感謝して祝うことが出来るようになった。私は、イエス・キリストを信じ、初めて教会でクリスマスを祝った時の喜びと感激を忘れることが出来ない。イエス・キリストの降誕のメッセージを聞き、イエス・キリストに感謝の祈りをささげた時、これが本当のクリスマスだと実感した。それは今まで経験したことのない特別なものだった。
 イエス・キリストを信じてクリスマスを祝うことは、どのような飾り付けやプレゼントをして祝うことよりも大切である。

2. イエス・キリストを礼拝すること

 聖書が教えるクリスマスの祝い方は、第二に、イエス・キリストを礼拝することである。聖書は世界で最初のクリスマスの出来事を次のように語っている。

「天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」(15~16節)。

 羊飼いたちは、イエス・キリストの降誕を知らされると、イエス・キリストを礼拝するために「急いで」出発した。また、占星術の学者たちも、はるばる「東の方から」「ユダヤベツレヘムまで幼子のイエス・キリスト「拝みに来た」と聖書は記している(マタイによる福音書2章1~2節)。
 勿論、彼らは、幼子のイエス・キリストから一言のメッセージも聞けないことは分かっていた。それでもイエス・キリストを礼拝するためにやって来た。イエス・キリストが礼拝をお献げするに相応しい救い主であると心から信じていたからである。クリスマスにイエス・キリストを礼拝することは、最も良い祝い方である。

3. イエス・キリストを伝えること

 聖書が教えるクリスマスの祝い方は、第三に、イエス・キリストを他の人に伝えることである。聖書は、最初のクリスマスを祝った羊飼いたちについて次のように記している。

「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」(17~18節)。

 羊飼いたちは、人々に救い主が生まれたこと、飼い葉桶に寝かせられていたこと、従って、誰でも出会えることなどを「人々に知らせた」
 イエス・キリストがどのような御方であるか、またイエス・キリストが自分の人生にどのようなことをして下さったかを、他の人に伝えることは、クリスマスの素晴らしい祝い方である。

4. イエス・キリストを賛美すること

 聖書が教えるクリスマスの祝い方は、第四に、イエス・キリストを賛美することである。聖書は、羊飼いたちについて更にこう言っている。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。

 この言葉は、世界で最初のクリスマス・キャロルであると言われている。クリスマスには毎年「ジングルベル」や「赤鼻のトナカイ」などの歌が歌われている。しかし、イエス・キリストの誕生を感謝し、喜び、イエス・キリストに賛美をささげることは、何よりもクリスマスに相応しいことである。
 私がバプテスマを受けた教会では、12月24日の夜、クリスマスイブ礼拝をお献げした後、教会員のお宅を車で何軒か回り、玄関の前でキャンドルを持って、イエス・キリスト降誕に関する讃美歌を歌った。また、以前牧師として仕えていた教会では、駅前でキャロリングを行った。
 イエス・キリストは、主なる神であられるのに、私達を罪から救うために人間となって生まれ、十字架で死んで下さった。私達の罪を贖って下さった。イエス・キリストを信じて救われ、最高のクリスマスを共にお祝いしよう!

聖書日課 出エジプト記29章

聖書日課 出エジプト記29章(新共同訳 旧約pp.141-144)

 出エジプト記29章には、〈祭司聖別の儀式〉についての指示(1~37節)と、〈日ごとの献げ物〉についての教え(38~46節)が記されている。

 祭司は、幕屋で「罪の贖いの儀式」(36節)を執り行うことによって、主なる神と人の間に罪の赦しと和解をもたらし、平和な交わりを築く役目を果たす人物である。それ故、自らの聖別のために厳粛な儀式を経なければならなかった。現在、祭司制度はなくなった。しかし、主なる神と隣人に仕えるために、聖別されることが必要であることに変わりはない。

 ところで、このようにして聖別された祭司がなすべき奉仕は、「毎日絶やすことなく」(38節)、「朝」「夕暮れ」に、「主の御前に」「焼き尽くす献げ物」をささげることであった(38~42節)。

「毎日絶やすことなく」朝に、夕に…、ここに礼拝者としてのあり方・生き方が示されているように思う。それは、主なる神が私達にも願い求めておられることである。何のためか? 私達が主なる神に「会い」、主なる神からの「語りかけ」を聞くためである。

「これは代々にわたって、臨在の幕屋の入り口で主の御前にささぐべき日ごとの焼き尽くす献げ物である。わたしはその場所で、あなたたちと会い、あなたに語りかける。わたしはその所でイスラエルの人々に会う。そこは、わたしの栄光によって聖別される。わたしは臨在の幕屋と祭壇を聖別し、またアロンとその子らをわたしに仕える祭司として聖別する。また、わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、すなわち彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの国から導き出したものであることを知る。わたしは彼らの神、主である」(42~46節)。

 主なる神は、イスラエルの人々のただ中に宿り」、人々と「会い」、人々に「語りかける」ことを願っておられる。そのために、彼らをエジプトの圧制から解放し、約束の地へと導き出された。それは、イスラエルの人々の才能や努力によるものではなく、ただ主なる神の一方的な愛と恵みによる賜物である。

 同じように、主なる神は、十字架の御業によって、私達を罪の束縛と滅びから解放し、天の御国へと向かう旅路に導き出して下さった。そして、主なる神は、日ごとに私達に「会い」、私達に「語りかけ」、私達と共に歩んで下さる。かつて、主なる神が幕屋によってイスラエル「ただ中に宿」られたように、今、聖霊なる神が、私達の「ただ中に宿り」、私達の「神とな」って下さった。これはまさしく、主なる神の一方的な愛と恵みによる賜物である。

西原新生バプテスト教会
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〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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