ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 出エジプト記28章

聖書日課 出エジプト記28章(新共同訳 旧約pp.139-141)

 幕屋で動物やその他の献げ物をささげ、イスラエルの罪を贖う儀式を執り行うのが、祭司の役割だった。モーセの兄アロンとその息子達が、この任務を果たすために主なる神から任命された。

「次に、祭司としてわたしに仕えさせるために、イスラエルの人々の中から、兄弟アロンとその子ら、すなわち、ナダブ、アビフ、エルアザルとイタマルを、アロンと共にあなたの近くに置きなさい」(1節)。

 この章には、祭司が幕屋で奉仕する時に着る祭服についての指示が記されている。特に、大祭司アロンのために「威厳と美しさを添える聖なる祭服」を作るようにという指示が与えられている。

「あなたの兄弟アロンに威厳と美しさを添える聖なる祭服を作らねばならない。あなたは、わたしが知恵の霊を与えたすべての知恵ある者たちに説明して、わたしの祭司として聖別されたアロンのために祭服を作らせなさい」(2~3節)。

 昔学んだ歴史の授業をふと思い出した。古代社会においては、宗教的な特権階級が存在し、国の政治に深く関わっていた。そして、貧しい平民や奴隷に比べて、裕福な生活をしていた。そのようなことを学んだ記憶がある。

「荒れ野を旅するイスラエルの人々の中で、祭司だけ高価で優美な服を着ていたなんて! それは〈特権階級〉なのではないか? 神様は彼らを特別扱いしているのだろうか?」昔の私なら、そのような疑問が湧いてきたかも知れない。しかし、この祭服の意味と祭司の役割を知ると、それは随分違ったものであったことが分かる。

 祭司は、その両肩に「二個のラピス・ラズリ」を付けていた。その宝石には、イスラエル12部族の名前がそれぞれ6部族ずつ刻まれていた(6~14節)。また、祭司の「胸当て」には、12個の「宝石」が付けられていたが、その宝石にも、イスラエルの各部族の名前が刻まれていた(15~30節)。更に、祭司が頭にかぶる「ターバン」に付けられた「額当て」には、「主の聖なる者」と刻まれていた(36~38節)。

 ここから分かることは、祭司は、イスラエル民族の代表であり、祭司の存在は、イスラエル民族そのものだということである。つまり、主なる神にとって、イスラエル「威厳と美しさを添える聖なる」者であった。そして、祭司はその代表として主なる神の御前に出て罪の贖いの儀式を執り行ったが、彼らは、イスラエルが主なる神にとってどのようなものであるかという、神の民のアイデンティティの象徴的存在でもあった。

 ここでパウロの言葉を思い出した。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)。

 罪ある自分は死に、真の大祭司イエス・キリストが自分の内に生きている。ここに現代に生きる神の民としての真のアイデンティティがある。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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聖書日課 出エジプト記27章

聖書日課 出エジプト記27章(新共同訳 旧約pp.138-139)

 聖所と至聖所を隔てる「垂れ幕の手前」には、純金で作られた「常夜灯」が置かれていた。常夜灯には、「夕暮れから夜明けまで」火が灯された。そして、その火が消えないように、祭司達が一晩中「守る」ように命じられている。

「あなたはイスラエルの人々に命じて、オリーブを砕いて取った純粋の油をともし火に用いるために持って来させ、常夜灯にともさせなさい。常夜灯は臨在の幕屋にある掟の箱を隔てる垂れ幕の手前に置き、アロンとその子らが、主の御前に、夕暮れから夜明けまで守る。これはイスラエルの人々にとって、代々にわたって守るべき不変の定めである」(20~21節)。

 夜にも常に光があるように、即ち、幕屋が闇に包まれることがないように、代々にわたって守られていた。

 幕屋は、主なる神の住まいであり、主なる神の臨在が現される所である。主なる神の臨在がある所には常に光があり、闇に包まれることは決してない。それが常夜灯によって示された教えである。

 新約聖書において、光は、第一に、主イエス・キリストを指し示している。イエス・キリストは言われた。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネによる福音書8章12節)。

 主イエス・キリストは世の光であり、イエス・キリストに従う者は暗闇の中を歩むことはない。光であるイエス・キリストに従うなら、暗闇の中を歩むことはない。道は明らかに示されている。

 第二に、光はキリスト者を意味している。イエス・キリストは言われた。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイによる福音書5章14~16節)。

 キリスト者の存在を通して、人々は「天の父をあがめるようになる」。主なる神を指し示す光として、キリスト者はこの世に遣わされ、生かされている。

 では、私達は、どのようにして世の光の役目を果たすことが出来るだろうか? それは、常夜灯の火が「オリーブを砕いて取った純粋の油」によって灯されたように、聖霊の油注ぎをいただくことによる以外にない。祈りと御言葉によって、聖霊なる神と親しく交わり、満たされ、導かれることによって、私達の内にキリストが形作られる。この内住のキリストの光によって、私達もまた、世の光として生かされ、導かれ、用いられる。

 今、私達の内側には、世の光であるイエス・キリストが輝いているだろうか? 私達は、世の光イエス・キリストと共に、イエス・キリストに従って歩んでいるだろうか?

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聖書日課 出エジプト記26章

聖書日課 出エジプト記26章(新共同訳 旧約pp.136-138)

 幕屋を覆う幕、幕屋の壁板と横木、至聖所の垂れ幕、天幕の入り口の幕……。26章には、引き続き幕屋の造り方についての指示が記されている。「こういう箇所が大好きです!」という人は少ないだろう。

 しかし、今日読んでいて、「主なる神はどうしてこれほどまでに事細かな指示を与えたのだろう?」という思いが浮かんできた。

 主なる神はモーセに言われた。

「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(25章9節)。

 その後も主なる神は、シナイ「山で示された」通りに幕屋を造るよう繰り返し命じ、念を押している(25章40節、27章8節など)。

「こうして、山で示された方式に従って幕屋を造りなさい」(30節)。

 主なる神が幕屋の構造を細部にわたって指示されたのは、ここに示されていることが、イスラエル民族にとって何よりも重大な意味を持っていたからだろう。

 幕屋は主なる神の御住まいである。そして、そこで執り行われる儀式は、罪の赦しと救いのためになくてはならないものであった。つまり、幕屋とその構造、そこで執り行われる儀式の全体は、イスラエル民族の命に関わるものだった。

 罪の赦しと救いは、人間の工夫や発見ではない。人の能力や努力では決して得ることは出来ない。それは、100%主なる神の愛と恵みによるものであり、主なる神が十字架の御業によって成し遂げて下さった賜物である。だから、その十字架の贖いの御業を指し示す幕屋も、人の工夫やアイディアではなく、主なる神の指示に従って造られ、主なる神の指示通りに祭儀を執り行うことを求められる。

 十字架に架かられたイエス・キリストを主として信じること、そして、主の御言葉に信頼し、聞き従って生きること、それが主なる神に創造された人間にとって最も重要なことであり、救いに至るための唯一の道である。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)。

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聖書日課 出エジプト記25章

聖書日課 出エジプト記25章(新共同訳 旧約pp.135-136)

 出エジプト記25章~31章には、〈幕屋〉についての指示が記されている。

「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(1~9節)。

 幕屋は、一言で言えば、〈主なる神の移動式住居〉である。主なる神は、イスラエルの民の「中に住む」ことを願われる。幕屋建設の指示の前には律法の教えが記されていたが、〈主なる神の言葉〉と〈主なる神の臨在〉は、神の民であることの最も重要な特徴であり、この2つがあるところに主なる神の御業と御栄光が現される。

 これは、今の教会も本質的には同じである。イエス・キリストを信じる者の内に聖霊が住んで下さる。つまり、キリスト者は、皆〈生きる幕屋〉である。そして、キリスト者の集いの中に主なる神が御臨在し、御言葉が読まれ、そこに主なる神の御栄光が現され、御業が行われる。

 また、幕屋は、神の民の礼拝の場でもあった。そこでは、日々、罪の贖いと和解のための献げ物が主にささげられ、また主への感謝の献げ物が献納された。そこでは、主なる神への祈りと讃美が、昼夜を問わず途絶えることはなかった。幕屋は、イスラエルの社会と生活の中心であり、神の民イスラエルの存在の土台そのものだった。

 ところで、この幕屋を造るための材料は、全て神の民が「おのおの進んで心からささげる」「献納物」によってまかなわれた。無理やりとか、仕方なくではなく、進んでささげる心のあるところに主なる神は住まわれる。そして、そのような心を持つ人々の集いの中で、主なる神の御栄光と御業は現される。

 今、私達のささげる礼拝と賛美、献金や奉仕は、そういう心から生まれているだろうか? また、私達はそのような心を大切に育てているだろうか?

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2021年12月26日(日) 週報

2021年12月26日(日) 降誕節第1主日

○礼拝プログラム
招詞 テトスへの手紙2章11節
讃美 68(父なる御神に み栄えあれかし)
交読 イザヤ書53章1~12節(新共同訳 旧約pp.1149-1150)
主の祈り
聖書拝読 ヨハネによる福音書1章29~34節(新共同訳 新約p.164)
祈り 司式者
讃美 121(馬槽のなかに うぶごえあげ)
宣教 「この方こそ神の子」柏本隆宏協力牧師
讃美 263(よろこばしき こえひびかせ)
祈り
奉献
頌栄 544(あまつみたみも)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○報告
1. 本日は2021年最後の主日です。主に対する一年間の感謝を込めて礼拝を献げましょう

2. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

3. 先月よりバプテスマ準備クラスを開始しました。バプテスマに向けての準備の一つ一つの上に、聖霊のお守りとお導きがありますようお祈り下さい。

4. 12月31日(水) 16:30より祈祷会を行います。それ以外の時間(20:00~)や、オンライン(zoom)での参加にも対応しますので、参加を希望される方は、教会のメールアドレス(下記)まで事前にお知らせ下さい。

5. 1月2日(日)新年礼拝をお献げします。2022年、私達の教会は伝道開始50周年を迎えます。新しい年を主への礼拝をもって始めましょう。

6. 1月9日(日)、礼拝の中で聖餐式が行われます。また、礼拝後、クリスマスの装飾の片付けと会堂の清掃を行います。皆で心を合わせて、教会の内外を綺麗に致しましょう。

7. 2022年1月20日(木)、日本バプテスト連盟の第67回定期総会が行われます。今回は加盟教会が総会前に書面で議決権を行使する〈書面による総会〉となります。私達の教会からは柏本協力牧師を代議員として登録し、選挙投票用紙と書面決議用紙を総会事務局に郵送致しました。

8. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
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○トラクト配布について 2021年度: 2,265部(2021年12月26日時点)
教会周辺 50部
教会~小橋川公民館 道路沿い 50部
国道329号線沿い(西原シティ~内間バス停) 25部
西原東小学校周辺 150部
西原町役場周辺(西原町与那城) 95部
西原台団地 95部
県営与那原第二団地(与那原町板良敷) 50部
中城村南上原 50部
与那古浜公園周辺(与那原町東浜) 100部
西原高校周辺 350部
琉球大学病院周辺(西原町上原) 50部
琉球大学教育学部附属小学校周辺(西原町千原) 140部
首里駅周辺 215部
石嶺団地周辺(首里石嶺町) 150部
県営幸地高層住宅(西原町幸地) 50部
首里高校周辺 75部
浦添前田駅周辺 150部
経塚駅周辺 180部
儀保駅周辺 65部
市立病院前駅周辺(首里末吉町) 145部
旭橋駅周辺 25部

○聖書日課
26日(日) 出エジプト記25章
27日(月) 出エジプト記26章
28日(火) 出エジプト記27章
29日(水) 出エジプト記28章
30日(木) 出エジプト記29章
31日(金) 出エジプト記30章
1日(土) 出エジプト記31章

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聖書日課 出エジプト記24章

聖書日課 出エジプト記24章(新共同訳 旧約p.134)

 キリスト教は契約の宗教であると言われる。聖書に啓示されている主なる神は、人間と契約を結ばれる。

モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』」(4~8節)。

〈契約〉と聞くと、「何か水臭い感じ!」とか、「形式的で堅苦しいイメージがする」と思う方もいるかも知れない。

 しかし、契約締結は、主なる神の厳粛で真剣な意志の表れである。この契約は、神の民イスラエルの、いや、イスラエルだけでなく、全人類の祝福と救いに関わる出来事である。つまり、聖書の契約は、人の生き死に関わる契約である。その意味に気付いた時、水臭いとか堅苦しいという印象は消えるだろう。

 信仰は気休めや気紛れではない。主なる神は、人に向かって真剣に問いかけられる。「ここに道がある、救いがある、私を信頼し、私の愛の中に生きなさい」と。そして、十字架の上に独り子イエス・キリストの命を献げ、その血によって永遠の救いの契約を成就された。

 イエス・キリストを信じたばかりの頃は、そういう真剣さがあったけれども、いつの間にか恵みに慣れて、真剣さも新鮮さも失ってしまったということが起こり得る。イスラエルの人々は、まさにそうだった。彼らは、主なる神の数々の奇跡を経験し、主なる神の声を聞き、主なる神の言葉をいただいて、厳粛な契約を交わしていながら、やがて約束の地に入り、安定した豊かな生活が始まると、主なる神の恵みを軽んじ、傲慢になって偶像に走っていった。

 これは、私達自身にも起こり得ることである。私達の心から、赦され愛されている喜びと感謝が失われる時、或いは、主の御前に謙る心が失われる時、私達は、イスラエルの人々と同じ危険性の中にいる。だからこそ、日々主の御前にひれ伏し、祈り、御言葉によって養われることが必要である。

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聖書日課 出エジプト記23章

聖書日課 出エジプト記23章(新共同訳 旧約pp.131-133)

 23章にも幾つかの律法が記されている。その中で、少し目を留めてみたいのは、新共同訳で〈敵対する者とのかかわり〉という見出しが付けられている4~5節である。

「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」(4~5節)。

 敵対する人物の「ろばが迷っている」のを見かけたら、必ず「連れ戻」してあげること、また、「ろばが荷物の」下敷きになっていたら、必ず敵対する人物と「共に助け起こさねばならない」ことが命じられている。

 日本では、昔から「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言われる。「敵対する奴のろばなんか助けてやるもんか!」と息巻く人がいても不思議ではない。〈やられたら、やり返す〉、それが、罪ある人間の本性なのだろう。だから、聖書のこういう箇所を見ると、現実離れした教えであるかのように感じる人も多いのではないか。

 しかし、よく考えてみると、逆に、これは非常に現実的な教えなのではないか。第一に、〈やられたら、やり返す〉ということでは、問題がより一層泥沼化し、憎しみと苦しみが増幅してしまう。だから、問題をそれ以上大きくしないために、これは必要な行動である。第二に、それは、敵に貸しを作ることになる。少なくとも、そうすることで、自分の立場が悪くなることはない。そして、第三に、それは、何よりも自分自身の罪の本性に打ち勝つ行為となる。つまり、感情に振り回されずに自分を保つことが出来る。実はこれが一番大切なことかも知れない。

 勿論、これはかなり処世訓的な解釈かも知れない。しかし、この教えが「必ず~ならない」という強い言い方がされているのは、そういう現実的な意味があるからではないか。つまり、これは人間関係を築く上での現実的な知恵であり、助けとなる教えである。現実離れした理想を勧めているのではない。

 しかし、主イエス・キリストは、この律法の教えの意味を更に深めて言われた。

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)。

 敵のろばを助けるだけではなく、敵自身を愛し、敵のために祝福を祈ること、それがイエス・キリストの教えである。これは、単なる処世訓の次元を超えて、霊的な次元、霊的な命と力によるしか成し得ようのないことである。そして、これこそが、律法の背後にある心であるに違いない。それは、自分の罪を悟り、主なる神の御前に謙る者に与えられる主なる神の愛である。

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聖書日課 出エジプト記22章

聖書日課 出エジプト記22章(新共同訳 旧約pp.129-131)

 22章にも様々な律法が記されている。これらは、隣人に損害を与えた時には「償わねばならない」と要約することが出来る。

「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない」(21章37節~22章3節)。

 或る意味で当然と言えることばかりである。しかし、そういう当然のことが出来ない、或いは、やろうとしないからこそ、主なる神はこのような戒めを与えられた。

 当たり前のことを、当たり前のこととして、きちんと受けとめて行う、そういう考えが行き渡っている社会であれば、どんなに住み易く、安心して生きることが出来るだろう。しかし、現代社会は、当たり前のことが当たり前でなくなってしまった社会、基準を失ってしまった社会である。

 あなたは人生の基準を持っているだろうか? 「そんなものない、いや要らない」という方もいるかも知れない。しかし、「何でもありで、どうでもいいか」と問われれば、そのようなことは有り得ない。私達は、誰でも何らかの基準を持って生きている。だから、大切なのは、何を基準として生きているかである。

 自分を基準として生きている人がいる。人を基準にして生きている人もいる。しかし、聖書は、主なる神の教えを基準として生きるように教えている。

 聖書はそのために与えられている。だが、私達は聖書をどれくらい知っているだろうか。また、学ぼうとしているだろうか。聖書は、一度読めばそれで全てが分かるというものではない。何度も何度も繰り返し読み、学び、味わっていくべきものである。聖書が次のように言っている通りである。

「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(テモテへの手紙二3章15~17節)。

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聖書日課 出エジプト記21章

聖書日課 出エジプト記21章(新共同訳 旧約pp.124-126)

 出エジプト記には、20章から十戒を始めとする様々な律法が記されている。それは、イスラエル民族が約束の地で築こうとしている国家の土台となる「法」であり、神の民に相応しい生き方を「示す」指針でもある。じっくり読むと、主なる神の御心が伝わってくる。

 21章には、奴隷についての律法が記されている。

「以下は、あなたが彼らに示すべき法である。あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。もし、彼が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることができる。もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。もし、その奴隷が、『わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません』と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる」(1~6節)。

 奴隷と言うと、「えっ? 聖書は奴隷制度を認めているの?」と疑問を感じる方がいるかも知れない。確かに、旧約聖書にも新約聖書にも、奴隷制度を禁止する教えはない。しかし、一方で、聖書は奴隷となった人々の取り扱い方について事細かに規定している。奴隷は、当時の世界では、主人の所有物であり、その生命も含めて主人の意のままに取り扱われていた。ところが、律法では、奴隷は単なる主人の持ち物ではなく、一人の人間として取り扱われている。

 律法によれば、奴隷は「七年目には無償で自由の身となることができ」た。つまり、6年を超えて奴隷のままにしておくことは出来なかった。また、その奴隷に家族がいる場合には、彼は家族と共に生きる道を選択することも出来た。

 女性の奴隷についても、主人やその息子のものとされた場合、「気に入らなくなった」からと言って、勝手に追い出したり「外国人に売る権利」はなかった(8節)。また、「自分の息子のものと定めた」女奴隷については、「自分の娘と同じように扱わなければならない」とあり(9節)、息子が「別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない」と命じられている(10節)。「もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができ」た(11節)。

 更に、自分の奴隷に暴力をふるって失明させたり「歯を折った」りした場合、その人は、奴隷を「自由に去らせねばならな」かった(26~27節)。

 このように、奴隷は、所有者の暴力や身勝手や無慈悲から守られ、またもしそのような被害を受けた場合には、自由の身になる道が開かれていた。罪の奴隷となった私達の身代わりに、独り子を十字架にかけて下さった主なる神の愛と恵みの御心が、このような所にも表れている。

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聖書日課 出エジプト記20章

聖書日課 出エジプト記20章(新共同訳 旧約pp.126-127)

 20章には有名な〈十戒〉が記されている。前半の4つ(3~11節)は、主なる神との関わりについての教えであり、後半の6つ(12~17節)では、人との関わりについて教えられている。つまり、十戒は、主なる神と人との〈関わり〉についての教えである。

「神はこれらすべての言葉を告げられた。『わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない』」(1~17節)。

 人間は、主なる神との関わり、隣人との関わりの中で生きるように創造された。その関わりはどうあるべきかが、十戒の中で教えられている。言い換えれば、十戒は、人が幸せに生きるための10の指針である。そして、それは2つのこと、即ち、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛」すること、「隣人を自分のように愛」することに要約される。これは、主イエス・キリストが教えられた〈最も重要な掟〉と全く同じである(マタイによる福音書22章37~40節)。

 今、あなたは、主なる神とどのような関わり(交わり)の中に生きているだろうか? また、あなたは、隣人とどのような関わりの中にあるだろうか?

 十戒を心に留め、自分自身の〈関わり〉を振り返ってみたい。

西原新生バプテスト教会
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