31章は、内容的に2つに分けられる。前半は、幕屋と祭司に関わる一切の物を作成する技術者の任命である。はじめに「ユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエル」が指名され(2節)、更に「ダン族のアヒサマクの子オホリアブ」がその助手として主なる神によって任命された(6節)。当然、彼らは熟練した技術者であった。興味深いのは、彼らは「神の霊」に「満た」されていたと書かれていることである(3節)。
「主はモーセにこう仰せになった。見よ、わたしはユダ族のフルの孫、ウリの子ベツァルエルを名指しで呼び、彼に神の霊を満たし、どのような工芸にも知恵と英知と知識をもたせ、金、銀、青銅による細工に意匠をこらし、宝石をはめ込み、木に彫刻するなど、すべての工芸をさせる。わたしはダン族のアヒサマクの子オホリアブを、彼の助手にする。わたしは、心に知恵あるすべての者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものをすべて作らせる」(1~6節)。
主なる神の御業を果たすことにおいては、単に技術的に優れているだけでは、用いられない。勿論熟練は大切である。必要でもある。しかし、それと共に、いやそれ以上に重要なのは、「神の霊」に「満た」されていることである。聖霊の満たしがなければ、主なる神の用に足る者とはなれないからである。また、人間の知恵や能力では果たすことが出来ない業だからである。主なる神の導きと知恵に従ってこそ、主なる神の御業は成し遂げられる。それ故、どんな熟練者も、主の御前にひれ伏し、主の導きと知恵をいただく姿勢を求められる。
後半は、安息日を厳守せよとの教えである。
「主はモーセに言われた。あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである」(12~13節)。
どうして幕屋の指示の後に、再び「安息日を守らねばならない」と命じられたのだろうか。それは、幕屋が〈場所〉の聖別であるのに対し、安息日は〈時〉の聖別だったからである。
神の民は、空間を聖別すると共に、時間を聖別することを求められる。聖別とは、人や物を他のものと分けて、主なる神のものとすることであるが、足だけ主なる神のものとなって、手は自分のもののままというのは、聖別に相応しくない。全身全霊が主のものとなる。そして、場所も時も全てが主のものとされることが、神の民のしるしである。
西原新生バプテスト教会
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