ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙5章

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙5章(新共同訳 新約pp.349-350)

 私達の罪が赦され、救われるには、ただイエス・キリストを信じるだけでよい、それがパウロが一貫して主張したことである。ところが、ガラテヤ教会の聖徒達は、偽教師の影響を受け、「信仰」(6節)に加えて、「割礼を受け」ようとした。

 パウロはそのような彼らに警告を与えている。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(1節)。

「割礼を受ける」というのは、「律法全体を行う義務」を背負うことであると、ガラテヤ教会の聖徒達は分からなかったのである(3節)。

 またパウロは、「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(2節)と述べている。「律法によって義とされようとする」(4節)ことは、イエス・キリストの十字架による贖いを不必要なものとすることだからである。その時、「キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失」ってしまう(4節)。

 律法は、人に罪を示し、それによって人をイエス・キリストによる罪の赦しと救いへと導く「養育係」として与えられた(3章24節)。しかし、「キリスト・イエスに結ばれ」(6節)、「信仰によって義とされ」た以上(3章24節)、「割礼の有無は問題ではなく」なった(6節)。それは、暗闇の中で明るい光の役目を果たすローソクも、太陽が昇れば、必要でなくなるのと同じである。にもかかわらず、ガラテヤ教会の聖徒達は、既に不必要になった「割礼を受ける」ことで、イエス・キリストの恵みを不必要なものにしようとしていた。

 これは決して他人事ではない。私達も、同じようなことをしていないだろうか。主なる神の愛と赦しを受けているのに、人からの称賛や名誉を求める。主なる神が必要なものを与えると約束して下さっているのに、自分の知恵と努力で何とかしようと焦り、思い煩う。そのようなことがないだろうか。その時、私達は再び肉の奴隷となってしまっている

 それ故、パウロは次のように勧めた。

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(16節)。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」(24~25節)。

西原新生バプテスト教会
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〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙4章

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙4章(新共同訳 新約pp.347-349)

 財産を管理する能力のない「未成年」が遺産を相続する場合、「相続人」「父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下に」いる。だから、その子供は「全財産の所有者」であるにもかかわらず、まるで「僕」のように「後見人や管理人」の言葉に従う(1~2節)。

 同じように、御子イエス・キリストが来られるまでの私達は、「世を支配する諸霊に奴隷として仕えてい」た(3節)。しかし、「時が満ち」た時、主なる神は、御子をこの世に送り、人間として生まれさせ、他のユダヤ人と同じように「律法の下に」置かれた(4節)。

 主なる神がそのようにされたのは、「律法の支配下にある」私達を「贖い出して」「神の子」の身分を得させるためである(5節)。私達が「神の子」とされたことは、主なる神が「御子の霊」である聖霊を、「わたしたちの心に送ってくださった事実から分か」る。聖霊によって私達は主なる神を親しく「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになった(6節)。私達は「もはや奴隷ではなく」「神によって立てられた相続人」となったのである(8節)。

 主なる神が、御子イエス・キリストを世に遣わし、聖霊を私達に送って下さったことによって、今私達は「神を知っている、いや、むしろ神から知られている」(9節)。

 だから、かつて私達が「神を知らずに」「奴隷として仕えて」いた「神でない神々」(8節)、「あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻り」する必要はない。いや、二度と戻ってはならない(9節)。そうすることはイエス・キリストの恵みを無視することであり、福音の働き人の「苦労」「無駄」にすることである(11節)。

「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(19節)。

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祈り ガラテヤの信徒への手紙3章

祈り ガラテヤの信徒への手紙3章(新共同訳 新約pp.345-347)

 天のお父様。あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も御前に引き出して下さり、あなたの恵みの言葉を聞かせて下さったことを感謝致します。
 天のお父様、あなたは信じる者を御子イエス・キリストに結び合わせ、イエス・キリストの十字架と共に古い人に死に、イエス・キリストの復活と共に新しい人として生きるようにして下さいました。「キリストに結ばれた」私達の一日一日は(27節)、このイエス・キリストの救いの御業を生活の中に表していくためにあります。どうか「キリストを着て」一日を始め(27節)、イエス・キリストを崇めるために生きる者として下さい。
 天のお父様、あなたが御声をかけて下さったから、私達はあなたの御声を聞きました。あなたを見上げることが出来ました。あなたは、私達を「信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子」として下さいました。
 今、新型コロナウィルス感染症の影響で、多くの方が痛みと苦しみ、不安の中にあります。かつて日本では〈絆〉という言葉が頻繁に叫ばれた時期がありました。しかし、それも虚しく消え、国民の分断、孤立が進んでいます。出口が見えない状況の中で、徒労感を感じているお一人お一人を、あなたご自身が支えて下さい。お一人お一人が、呼びかけておられるあなたの御声に気付くことが出来ますように。あなたの方を振り向くことが出来ますように。あなたに出会うことが出来ますように。主よ、どうかお一人お一人をお導き下さい。
 天のお父様、あなただけが真の〈絆〉を与えることがお出来になる方です。あなたは一度握った者を決してお見捨てにならないからです。決して放すことはなさらないからです。あなた以外に、真の癒しも回復もありません。主よ、今あなたを求める方にあなたの御言葉を届けることが出来ますよう、キリストの体である教会を力づけて下さい。
 また、事態の収束には長い時間が必要ですが、それに関わる者に知恵と力をお与え下さい。私達が得体の知れない不安に駆られたり、世間体や体面にこだわって、自己保身に走ろうとする時、私達に愛と勇気をお与え下さい。
 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙3章

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙3章(新共同訳 新約pp.345-347)

 この手紙の中で、パウロは、ガラテヤ教会の聖徒達の無理解と不信仰に対する怒りをあらわにしている。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(1~3節)。

 このパウロの言葉を聞く時、人は何と惑わされ易い存在であるかと思わされる。ガラテヤ教会の聖徒達は、「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとする」(3節)間違いを犯していた。それは、イエス・キリストへの信仰によって救われた人生を、「律法の実行」(10節)によって仕上げようとすることを意味していた。

 それに対し、パウロは、彼らに信仰による救いの原則を確認させるため、ユダヤ民族の祖であるアブラハムにまで遡って、福音の真理を説明し、彼らの間違いを正そうとした。

アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(6節; 創世記15章6節)。これが信じることによって義とされる根本である。聖書は一貫して、信仰による義と救いを説いている

 一方、アブラハムから430年後、律法が与えられた。律法は「違反を明らかにするために付け加えられたもの」(19節)で、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」(24節)である。つまり、律法によって罪を示された者が、聖霊によってイエス・キリストへの信仰に導き入れられる。そこに律法の役割があった。その上で、パウロは次のように宣言している。

「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」(25~26節)。

「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」(29節)。

 私達は、ここでパウロが語っていることを確信しているだろうか。

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祈り ガラテヤの信徒への手紙2章

祈り ガラテヤの信徒への手紙2章(新共同訳 新約pp.343-345)

 天のお父様。あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も御前に引き出して下さり、ありがとうございます。
 天のお父様、あなたは、私達が幸いな時にも、苦しみの日にも、私達と共にいて下さいます。にもかかわらず、私達はあなたが共にいて下さることを覚えて感謝することも、信頼することも少ない者です。私達はあなたから与えられている恵みを忘れ、困難にだけ目を向け、「わたしの内に生きておられる」御子イエス・キリストを見失ってしまい易い者です。そのため、ペトロやバルナバのように、人を「恐れてしり込みし、身を引こうとし」たり、「心にもない」「見せかけの行いに引きずり込まれてしま」うことがあります。
 そのような私達に、あなたの御子イエス・キリスト「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイによる福音書14章27節)と語りかけ、近づいて下さいます。この主の御声に、私達も「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない」(詩編46編2~3節)とお答えし、御子を私達の内に、生活に、人生にお迎えします。今日もあなたのご臨在と共に、あなたの平安に満たされて、歩むことが出来ますようお導き下さい。罪によって苦しむ時、生きていることに疲れた時、落胆した時、恐れを抱いて、平安を失った時、十字架に拠り頼む者となれますように。イエス・キリストから目を離すことのない者として下さい。
 天のお父様、あなたは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16節)という福音の真理をはっきりと教えて下さいました。律法に死に、あなたに対して生きる信仰をお与え下さい。それによって私達の心と思いと生活に変革を与えて下さい。私達が福音の真理に生かされ、イエス・キリストに従って生きることによって、隣人に福音の真理を証しすることが出来ますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙2章

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙2章(新共同訳 新約pp.343-345)

 パウロは、ペトロが「アンティオキアに来たとき」(11節)のことについて語っている。

 ペトロは、アンティオキアの異邦人キリスト者「一緒に食事をしていた」。しかし、エルサレムからユダヤ人が来たという知らせを聞くと、急に「しり込みし、身を引こうとしだした」(12節)。そして、ペトロがそのような態度を見せると、「ほかのユダヤ人」キリスト者も、ペトロと共に「心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしま」った(13節)。

 パウロはペトロに対し問題の核心を指摘した。

「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(14節)。

 ペトロをはじめとするユダヤキリスト者に対し、「彼らが福音の真理にのっとってまっすぐに歩いて」おらず、他の人々に律法の重荷を負わせるファリサイ派の過ちに陥っていることを指摘したのである(マタイによる福音書 23章4節)。

 その上で、パウロは、ユダヤ人も異邦人も「律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」(16節)と強調する。「律法の実行によって」義と認められる人は「だれ一人として」いない(16節)。

 また、恵みの福音を嘲笑い、「キリストは罪に仕える者」と非難する人々の主張をパウロは否定する。信仰によって義と認められる「神の恵み」(21節)を知ったなら、欲望のままに、好き勝手に生きようなどと最早願わなくなる(ローマの信徒への手紙6章2節)。また、「キリストによって義とされ」た者が、もう一度「律法の実行」によって義を立てようとするなら、それは「自分で打ち壊したものを再び建てる」ようなものであり、「自分が違反者であると証明する」ことになる(18節)。

 私達は「律法の実行」に失敗したので、「律法に対しては律法によって死んだ」者である。しかし、「キリストと共に十字架につけられ」「神に対して生きる」ようになった(19節)。主なる神に対して生きる人生は、「キリストがわたしの内に生きておられる」人生であり、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰」によって生きている人生である(20節)。それは「神の恵み」(21節)の人生である。

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祈り ガラテヤの信徒への手紙1章

祈り ガラテヤの信徒への手紙1章(新共同訳 新約pp.342-343)

 天のお父様。あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も御前に引き出して下さり、ありがとうございます。
 天のお父様、「この悪の世」ではあなたのご主権が忘れられ、人間的な誇りが横行しています。しかし、あなたの御子イエス・キリストは私達をそこから救い出そうとして、その命を捨てて下さいました。心も唇も行いも汚れた者であった私達に、あなたは御子イエス・キリストの血潮を注ぎ、私達の内も外も聖めて下さいました。親が汚れた子供の体を洗うように、あなたは私達を洗って下さいました。あなたの愛と恵みに心から感謝致します。
 天のお父様、今、私達はあなたのものです。あなただけのものです。私達に与えられた救いと召命、そして使命は全てあなたから来たものです。どうかあなたの御心のままにお導き下さい。私達が、イエス・キリストを更に深く知り、あなたからのものと人からのものを区別して、福音の真理を守り、それに生きる者として下さい。
 主よ、もし私達が「キリストの福音」に他のものを付け加えたり、自分にとって都合の悪い部分を除いたりするなら、イエス・キリストの死を無駄なものにしてしまいます。私達をイエス・キリストの恵みの中に留めて下さい。「ほかの福音」に惑わされない霊的な洞察力を与えて下さい。そして、この世にあって、イエス・キリストの僕として生かして下さい。隣人に福音の真理を証しする者として下さい。あなたを求めるお一人お一人が、人の教えでなく、あなたの啓示による福音に耳を傾け、御子イエス・キリストに出会うことが出来ますように。
 尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙1章

聖書日課 ガラテヤの信徒への手紙1章(新共同訳 新約pp.342-343)

 パウロは主なる神の召しを受けた使徒(1節)として手紙を書いている。パウロはガラテヤの信徒への手紙の冒頭で、自分が「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」(1節)と強調している。

 また、パウロ「告げ知らせた福音」(11節)が、「人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされた」(12節)ものであることをはっきりと伝えている。それはガラテヤの教会の特殊な状況の故であった。この点がはっきりしていなければ、ガラテヤの教会に入り込んで「キリストの福音を覆そうとしている」(7節)ユダヤ主義者〉の律法主義に躓く危険性が余りにも大きかったからである。

 ガラテヤ教会に入って来たユダヤ主義者〉は、パウロが伝えた内容とは「反する福音を告げ知らせ」た(9節)。パウロはそれを「ほかの福音」(6節)と言っている。しかし「ほかの福音」に従うことは、彼らを「キリストの恵みへ招いてくださった」(6節)主なる神を裏切るのと同じことだとパウロは強調する(6節)。事実、「ほかの福音」がある筈がない。ユダヤ主義者〉の異説は「ほかの福音」というより、「キリストの福音を曲げようとしている」(7節・口語訳)だけである。

 パウロは、「何とかして人の気に入ろうとあくせくして」(10節)、「ほかの福音」を伝える者は、「キリストの僕」(10節)ではなく、「呪われる」べきであると宣言した。パウロ自身は勿論、たとえ「天使」であっても、パウロが受け、告げ知らせた福音に反するものを、福音だと言って伝えるなら、その行為自体が呪いとなる(8節)。

 イエス・キリストによる救いの福音は、主なる神から来たものであり、その福音のために主なる神はパウロを直接召された。それ故、真の福音は「人に取り入ろう」(10節)と人間的に妥協することはない。

「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。わたしたちの神であり父である方に世々限りなく栄光がありますように、アーメン」(4~5節)。

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祈り コリントの信徒への手紙二13章

祈り コリントの信徒への手紙二13章(新共同訳 新約p.341)

 天のお父様。あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も御前に引き出して下さったことを感謝致します。
 天のお父様、あなたは世を愛し、私達の救いのために御子イエス・キリストを世に遣わして下さいました。御子イエス・キリストは、十字架の贖いと復活によって罪の赦しを勝ち取って下さいました。そして、聖霊なる神が、私達をイエス・キリストの救いに導き、救いの内に保っていて下さいます。
 私達は、「主イエス・キリストの恵み」によって救われ、聖霊によってあなたとの「交わり」の中に導き入れられました(13節)。あなたの御顔を仰ぎ見ることが出来るとは、何という幸いでしょう。このような罪深い者に御手を伸ばし、触れて下さった、あなたの「愛」に心から感謝致します。
 天のお父様、あなたに守られ、あなたの御子に支えられ、あなたの御霊に導かれて、今日も歩むことが出来ますように。私達をあなたの愛と恵みと交わりの内に留めて下さい。私達を常に悔い改めと信仰に導いて下さい。悪を退け、善を愛する心を私達にお与え下さい。
 また、私達一人一人が信仰共同体の中で聖霊の働きに心を開き、「思いを一つにし」「平和を保ち」、協力し合い、「励まし合い」「喜び」の内に生きることが出来ますよう、お導き下さい。「愛と平和の神」であられるあなたの御心が私達の上に、そして私達の隣人の上に実現しますように。周りの人との関わりの中で、あなたの愛と恵みを証しすることが出来ますように。
 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書日課 コリントの信徒への手紙二13章

聖書日課 コリントの信徒への手紙二13章(新共同訳 新約p.341)

 コリント教会の聖徒達は、偽教師の影響によって、使徒パウロの正当性を疑うようになった。パウロは本当に使徒であるのか、パウロの語る言葉は本当にイエス・キリストの言葉なのか、その証拠を真剣に求めた。

 それ故、パウロも真剣に答えた。そして、パウロと共におられる主イエス・キリストの御思いを真実に伝えた。

「以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(2~4節)。

「容赦しません」というのは、パウロの思いである前に主イエス・キリストの思いであり言葉である。主なる神は、偽教師の語る偽りの教えを受け入れ、正しい信仰から離れようとしていたコリント教会の聖徒達に対し、怒りをあらわにし、警告を与えられた

 しかし、主なる神の怒りは、人を滅ぼすことを目的とするものではない。それは、罪と悪に陥った人々を、悔い改めと回復に導くための警告である。だから、パウロは次のように言った。

「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです」(10節)。

 パウロは、彼が真の使徒であることをコリント教会の聖徒達が「知るように」なることを願った(6節)。また、彼らが「どんな悪も行わ」ず、「善を行う」ことを、主なる神に祈った(7節)。そして、「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています」(9節)と彼らに語りかけた。

 パウロは、この手紙を以下のような言葉によって結んでいる。ここには、コリント教会の兄弟姉妹に対する使徒パウロの想いがはっきり表されている。

「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(11~13節)。

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