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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書6章

聖書日課 エゼキエル書6章(新共同訳 旧約pp.1302-1303)

 6章もエルサレム滅亡の預言である。エルサレムが滅ぼされる時、主なる神はエルサレムの山々にある「聖なる高台」「偶像」「粉々に」「打ち壊され」る(6節)。また、主なる神は「諸国民の間に」「捕囚として連れ去られる」人々を残される一方で(9節)、多くの人々が「疫病で死に」「剣で」殺されるようにされる(12節)。こうして、この地は全く「荒れ果てたところ」となる(14節)。

 しかし、ここで注目したいのは、本章では4度も繰り返し、「そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」と言われていることである。つまり、主の裁きを通して、イスラエルの人々が真に主を「知るようになる」ことが何度も繰り返し強調されている。

「そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる」(10節)。

 主なる神の裁きは、単に彼らを苦しませるためのものではない。裁きの痛みを通して、彼らが再び主に目を向け、主を知るようになるための手段でもある。それ故、主なる神の裁きは、主なる神が彼らを見捨ててしまったということを意味してはいなかった。いや、寧ろ、主なる神は裁きの苦しみを通してさえ、なお彼らに主を知り、主に信頼することを教えようとされていた。

 しかし、私達はどうだろうか。苦しみの中にいる時、私達は、主なる神に見捨てられたのではないかと思い、主なる神の愛に対する疑いや不信を持つことが多いのではないか。そのような時は、静かに振り返ってみよう。もしかしたらそれは自分自身の罪が引き起こした苦しみではないだろうか。そして、主なる神は、その苦しみの中で何を語りかけておられるのだろうかと。

 このように、苦しみの中で主の御前に謙る時、私達は主なる神に出会い、主なる神の御声を聴く機会が与えられる。その時、苦しみは主なる神との出会いの場となり、主なる神との出会いは、私達を慰め、癒し、力づけ、新しく生きる者と造り変えて下さる。全ては主なる神の恵みによる祝福であり、苦しみもまた、恵みと祝福に変えられる。そして、ここでも大切なことは、主の御声に耳を傾け、主の導きの声に従って生きることである。

「そのとき、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」(14節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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