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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エレミヤ書22章

聖書日課 エレミヤ書22章(新共同訳 旧約pp.1216-1218)

 エレミヤ書22章は、「ユダの王」に対する主なる神の言葉である。そこでは、一国の王であるというのに、誰一人その「死」「悼む者はな」く、都エルサレムから「引きずり出されて投げ捨てられ」「ろばを埋めるように埋められる」と言われている。

「それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて/主はこう言われる。だれひとり、『ああ、わたしの兄弟/ああ、わたしの姉妹』と言って彼の死を悼み/『ああ、主よ、ああ陛下よ』と言って、悼む者はない。彼はろばを埋めるように埋められる。引きずり出されて投げ捨てられる/エルサレムの門の外へ」(18~19節)。

 どうして、王ともあろう者が、そのような目に遭わなければならなくなってしまったのか。直前でこう言われている。

「あなたの目も心も不当な利益を追い求め/無実の人の血を流し、虐げと圧制を行っている」(17節)。

 主なる神から与えられた使命に生きるよりも、自分の地位にあぐらをかいて、貧しく弱い人々を「虐げ」「無実の人の血を流し」、自分の「利益」だけを「追い求め」る、それが主なる神から離れ去ったユダの王の姿だった。それ故、その最期は惨めで寂しいものとなってしまうと言われている。

 人は生きてきたように死んでいくと言われることがある。それは地位や身分のことではなく、生き様そのものを言っている。たとえ一国の王であろうとも、それは同じである。

 私は、何十年も前に母教会で行われた或る老婦人の告別式を忘れることはない。悲しみや寂しさがあるのが当然である筈の葬儀で、私は深い感動を覚えたのである。勿論、そこには沢山の涙があった。しかし、それ以上に、多くの人の心を動かす何かがそこにあった。

 名もなく、年老いた、一人のご婦人のどこに、それほど人々の心を深く感動させるものがあったのか。その秘密は、信仰一筋に生きたその方の人生そのものにあった。葬儀の席で語られる多くの人の証しと思い出を通して、参列した人は、一人の信仰者の人生に多くの恵みを注ぎ続けて下さった主なる神を見た。

「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も」(3~4節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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