ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

祈祷会奨励 2021年8月25日

祈祷会奨励 2021年8月25日
ヤコブの手紙1章2~12節(新共同訳 新約p.421)
「試練を喜ぶ」
讃美歌: 381(ちからのかぎりに)、512(わがたましいの したいまつる)

「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)とヤコブは言う。試練を喜ぶというのは、常識では考えられないことである。
 聖書における試練とは、主なる神が苦難によって私達の信仰を試されることである。試練は偶然に起こったことではない。主なる神から来ている。その目的は私達を成長させることである。つまり、試練は主なる神の〈学校〉である。
 しかし、主なる神は真実な方なので、私達を耐えられない試練に遭わせることはなさらない。また、その試練には出口がある。試練は主なる神の〈学校〉だから、卒業の時が必ず来る。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントの信徒への手紙一10章13節)。

 とはいえ、私達は何故試練を喜ぶべきなのだろうか。

1. 主なる神に立ち帰ることが出来るから

 人生に試練がなければ、私達は主なる神を忘れてしまう可能性がある。信仰の父アブラハムでさえそうだった。創世記22章アブラハムの受けた試練が書かれている。愛する独り子イサクが健やかに成長し、アブラハムが世的な幸せを感じていた時、主なる神は彼に、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげるように命じられた。アブラハムはどれほど驚いたことだろう。彼は信仰の初心に帰ったのではないか。
 ダビデも、様々な試練に遭ったが、その度に主なる神に立ち帰り、主なる神に拠り頼んだ。

「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119編71節)。

 日本でも内村鑑三は次から次に過酷な試練を味わった。アメリカ留学中は「ジャップ、ジャップ」と罵られながら、知的障害児のための養護学校で看護人として勤務した。帰国後は明治天皇御真影に拝礼しなかったということで非国民扱いされ、家に石を投げられた。心労のために妻が病に倒れ、死んでしまった。弟子の有島武郎が信仰を捨てて人妻と心中した。貧困、娘との死別、高弟の離反……ありとあらゆる辛酸を舐めた。だが、このような苦しみを通ったことで、彼はチャラチャラしたキリスト教に惹かれなくなった。そして、本物のキリスト教を伝えたいという思いで無教会運動を始めた。
 試練はあって欲しくないものである。しかし、私達は試練によって、どのような信じ方をしているかを問われる。主なる神は私達の信仰が本物に近づくように試練を与えられる。私自身、もし試練がなかったら、主なる神から離れてしまっているか、或いは主なる神を舐め、趣味レベルのキリスト教で満足する信者になっていたに違いない。
 中途半端な練習ではオリンピックやパラリンピックの選手になれないように、私達が今過酷な試練の中にあるならば、それは主なる神が私達を筋金入りのキリスト者にしようとしておられるからである。だから、その試練を喜び、感謝しよう。

2. 忍耐が生まれるから

「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。

 現代の日本では、私達が忍耐しなくてもいいように、生活用品が次々に自動化されている。しかし、生活がどれほど便利になっても、私達は人間として忍耐が必要である。忍耐は私達が持つべき最高の品性ではないだろうか。
 では、どうすれば忍耐は生まれるか。試練に遭うことによってである。
 或るアメリカ人の女性が、自分が所属する教会の牧師に「私には試練に耐えられる忍耐がないので、忍耐が与えられるように祈って下さい」と願ったところ、牧師は「どうかこの姉妹に試練をお与え下さい」と祈ったという。これは笑い話だが、その牧師は間違っていない。
 忍耐を数式で表すならば、〈信仰+試練=忍耐〉である。試練によって忍耐が生まれるので、試練を喜ぶべきである。

3. 成熟したキリスト者になるから

「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。

「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(12節)。

 主なる神は、私達を試練に遭わせて成長させる。聖書の中で主なる神に用いられている人は、皆試練に遭っている。彼らは試練によって試され、忍耐を与えられ、成長し、主なる神に用いられた。それは現在も変わらない。主なる神は、私達を試練に遭わせて、成長させる。
 河野進という牧師が次のような詩を作っている。
「病まなければ ささげ得ない祈りがある/病まなければ 信じ得ない奇跡がある/病まなければ 聞き得ない御言がある/病まなければ 近づき得ない聖所がある/病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある/おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得ない」。
 また、アメリ南北戦争で負傷した一人の無名の兵士が残した次の言葉からも、私は大変教えられた。
「より大きなことを成し遂げるために/力を与えて欲しいと求めたのに/謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。偉大なことができるように/健康を求めたのに/より良きことをするようにと病弱を授かった。幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるようにと貧困を授かった。人々の賞賛を得ようと/成功を求めたのに/得意にならないようにと失敗を授かった。求めたものはひとつとして与えられなかったが/願いはすべて聞き届けられた/私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」。
 私自身、沖縄における現在の生活に導かれるまでに、幾度となく〈挫折〉を経験した。20~30代の頃、私の願う道が開かれるチャンスが訪れることが何度かあった。これを逃したら、次のチャンスはもうないかも知れないと思った。しかし、その切符を手に持っている人は、私に対し、私の生殺与奪を握っていると言わんばかりの態度をとってきた。その時、私はその人の目や評価が気になってしょうがなくなり、遂に対人恐怖に陥ってしまった。しかも、その人を通して切符を手に出来たことは、結果的にただの一度もなかった。
 40歳を過ぎて、何故このような体験をさせられたのか、漸く理解出来るようになった。それは、人を恐れず、主なる神だけを信頼して生きるようになるためである。私自身がそうだったが、恐怖に怯える人は、罠にかかっている。恐怖は恐怖を呼び、どんどんと深みにはまっていく。人の目や評価に振り回され、つまらない恐怖で人生を棒に振らないための対策はただ一つ、〈主なる神だけを恐れる〉ことである。私達を裁くことが出来るのは、主なる神しかいない。主なる神の許しなしに、人間は何も出来ない。そのことを、私は試練を通して教えられた。人を恐れず、主なる神だけを恐れ、大胆に正しいことを行っていきたい。

「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。治める者の歓心を得ようとする人は多い、しかし人の事を定めるのは主による」(箴言29章25~26節(口語訳))

まとめ

 主なる神は私達に対して素晴らしい計画を持っておられる。それ故、私達を試練に遭わせる。だから、試練を主なる神の恵みとしてお受けしよう。そして試練を喜ぶ者になろう。