聖書日課 ルカによる福音書14章(新共同訳 新約pp.136-138)
「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)。
公生涯の3年間、イエス・キリストの周りには、いつも大勢の人々が群がるように取り囲んでいた。しかし、その多くは、イエス・キリストに癒しや奇跡を求めて来た人々であり、また、メシアがローマ帝国を打ち破って、地上に王国を築くことを期待して集まって来た人々であった。
つまり、彼らは、自分の願いを叶えてもらうためにイエス・キリストのところにやって来ただけであり、イエス・キリストの弟子となるために来たのではなかった。勿論、病気の癒しや奇跡を求めることが間違っているというわけではない。しかし、それだけではイエス・キリストの弟子ではない。では、イエス・キリストの弟子とはいかなる者だろうか。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。
これは、感情的な憎しみのことを言っているのではない。優先順位が教えられているのである。つまり、イエス・キリストの弟子とは、家族や自分の命にも優って、イエス・キリストに聞き従うことを第一にして生きる者である。イエス・キリストを信じるというのは、〈献身する〉ことであると、イエス・キリストははっきり人々に教えられたのである。
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)。
「自分の十字架を背負う」とは、イエス・キリストと共に死ぬことを意味する。イエス・キリストがただ一度罪に対して死なれたように、イエス・キリストの弟子も、古い自己中心の自分がイエス・キリストと共に十字架につけられた。また、イエス・キリストが主なる神に対して生きておられるように、イエス・キリストの弟子も、イエス・キリストに結ばれて、主なる神に対して生きている(ローマの信徒への手紙6章1~11節)。
「えっー! キリストの弟子になるって、そんなに大変なの?」と驚きと躊躇を覚える人もいるだろう。だからこそ、イエス・キリストは、イエス・キリストの弟子としての道を選ぶべきかどうか、よく考え、慎重に計算した上で決心するようにと、2つのたとえを用いて教えられた(28~32節)。
そして、最後にイエス・キリストは次のように言われた。
「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。
イエス・キリストの弟子は、自分の持ち物や財産に満足したり、縛られるような者ではない。自分の全ては主がお与え下さったものであることを喜び、感謝し、主に拠り頼んで、生き生きと、自由に、積極的に生きる者、それがイエス・キリストの弟子である。
西原新生バプテスト教会
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