ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マタイによる福音書26章

聖書日課 マタイによる福音書26章(新共同訳 新約pp.51-55)

 マタイによる福音書の26章は、とても長い章で、ベタニヤのシモンの家で香油を注がれる出来事から始まり、最後の晩餐、ユダの裏切り、ゲツセマネの祈り、イエス・キリストの逮捕と裁判、そして、ペトロがイエス・キリストを知らないと三度否定した出来事が記されている。イエス・キリストが十字架にかけられる時が刻一刻と近づいていた。

 祭司長達と民の長老達は、大祭司カイアファの家に集まり、イエス・キリストをどうやって捕えて殺そうかと相談した(3~4節)。しかし、彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた(5節)。

 確かにイエス・キリストは、これらの人々の計略によって捕えられ、裁判にかけられ、殺された。イエス・キリストは、人間の妬みと悪意によって捕えられ、死に至らしめられた。しかし、それはあくまでも真実の一面でしかないことを忘れてはならない。イエス・キリストは、決して人間の罪と悪のなすがままになって十字架にかけられてしまったのではない。十字架は、主なる神の御旨であり、主なる神の御計画だった。イエス・キリストは自分を捕らえに来た人々に言われた。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」(55~56節)

 人々は悪意をもってイエス・キリストを抹殺しようとした。しかし、主なる神の御計画はその中にも着々と進められていた。それ故、彼らが「祭りの間はやめておこう」と言っていたにもかかわらず、実際には祭りの最中にイエス・キリストは殺された。何故そうなったのだろうか? それが主なる神の御計画だったからである。全ての罪を取り除く主なる神の小羊として、イエス・キリストは真の過越の小羊となられた。

 私達の人生にも、悪や罪に翻弄されているかのように思える時がある。しかし、そのような時にも、主イエス・キリストは私達と共におられ、助け、守り、導き、御計画を進められる御方であることを忘れてはならない。だからこそ、使徒パウロはこう言った。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。

 この約束を、私達は決して忘れてはならない。