ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

聖書日課 マラキ書2章

聖書日課 マラキ書2章(新共同訳 旧約pp.1497-1499)

「あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と」(17節)

 人間の語る言葉が、天地を造られた主なる神を疲れさせるなどということがあるのだろうか。それがある。人間を愛する主なる神は、人間の一挙手一投足を御覧になっており、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、褒め称えたりされる方だからである。では、一体どのような言葉が主を疲れさせたのか?

「あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである」(17節)

「悪を行う者が栄え、真面目に主に仕えてきた自分達が苦労しているなどおかしいではないか! 神の裁きなどないのだ! 神様は悪を行う者を喜ばれるのだ」という人々の不満と不信の声が、主を疲れさせた。

 彼らの根深い不満と不信は、声だけでなく、既に行動に現れていた。それは主に仕える祭司達にまで及んでいた。本来ならば主なる神の真理を教え、人々を罪から立ち帰らせる役目を果たすべき祭司達が、「道を踏みはずし/教えによって多くの人をつまずかせ」(8節)、「民のすべてに軽んじられる価値なき者」(9節)となってしまっていた。

 主に仕える祭司を軽んじる民も、大きく道を踏み外していた。彼らは、経済的に有利な異邦人の娘を娶り、そのためにユダヤ人の妻と離縁することまでしていた。これは妻への裏切りであると共に、夫婦の誓約をした主なる神に対する裏切りでもあった(10~15節)。

 周りの状況が自分の思うようにならない時、人は、不平不満で一杯になり、主なる神の御心と公義を疑い、自分の好き勝手な道を歩み始める。その結果、生きる希望と意欲を失い、倦怠と自暴自棄の日々を送ることになってしまう。

 自分の思いを優先させる時、私達は、主なる神の御前に謙ることを忘れる。悲劇は、そこから生まれる。

「わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると/万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない」(16節)