聖書日課 イザヤ書26章(新共同訳 旧約pp.1099-1100)
前章に続いて、26章にも終末における勝利と祈り、そして審判の預言が記されている。本章は3つの部分に分けられる。1~6節が「勝利の歌」、7~19節が「復活を求める祈り」、そして20節~27章1節までが「主の審判」となっている。
「その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」(1節)。
「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。主は高い所に住まう者を引きおろし/築き上げられた都を打ち倒し/地に打ち倒して、塵に伏させる。貧しい者の足がそれを踏みにじり/弱い者の足が踏みつけて行く」(4~6節)。
私達の「信頼」は、目に見えるものによって揺らぎ易い。しかし、「主こそはとこしえの岩」であり、揺らぐことも裏切ることもない。だから「どこまでも主に信頼せよ」。やがて必ず高きは「打ち倒」され、「貧しい者」と「弱い者」の勝利する日がやって来る。
「主よ、あなたの裁きによって定められた道を歩み/わたしたちはあなたを待ち望みます。あなたの御名を呼び、たたえることは/わたしたちの魂の願いです。わたしの魂は夜あなたを捜し/わたしの中で霊はあなたを捜し求めます」(8~9節)。
信仰の本質は、願いが叶うとか御利益があるというようなことではなく、主なる神を愛し、心から慕い求めることにある。私達の「魂」の奥底の渇きを満たすのは主なる神以外にはない。そして、主なる神によって「魂」が満たされる時、真の平和(平安)が訪れる。
「あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます」(19節)。
主なる神を見出すまで、私達は、肉体は生きていても心と「魂」は死んでいる。主なる神はそのような私達の上に「光の露」を降らせ、「命を得」させ、目覚めて「立ち上が」らせ、「喜び歌」う者として下さる。
喜びと平和は、私達の「魂」が主なる神に満たされるところから湧き上がる。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手に包まれ、御前に祈りを献げられることを心から感謝致します。
主よ、あなたが私に与えて下さったのは、あなたを信じる強い力ではありませんでした。揺れ動く心を持ちながら、浮き沈みの中にあってなお、あなたが握って下さっていると知ることでした。
主よ、私の心が動かなくなる時があります。何も感じることが出来なくなる時があります。しかし、あなたは握って下さっています。主よ、私はあなたのものです。
あなたは「光の露」であり、十字架の血潮を注いで下さいます。甦らせて下さいます。永遠に生かして下さいます。
主よ、あなたに握っていただいている者は、何と幸いなことでしょう。
今苦しみや痛みの中にあるお一人お一人をあなたご自身が握って下さい。いいえ、あなたが握って下さっているということを、お一人お一人が知ることが出来ますよう、その心を開いて下さい。語りかけて下さい。苦しみや痛みは、あなたの愛からお一人お一人を奪うことが出来ないと知ることが出来るよう、助け導いて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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