聖書日課 イザヤ書55章(新共同訳 旧約pp.1152-1153)
心の「渇き」、「魂」の「飢え」の中に生きる人々に主なる神は呼びかけられる。
「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め/価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。
僅か1節の中に、「来るがよい」「来るがよい」「来て」と3度も強く勧められている。魂の飢え「渇き」は、主なる神によってしか潤されないからである。
しかも、「価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」と言われているように、主なる神が下さる救いと満たしは、無償で与えられる。主なる神が身代わりに代価を払って救い出して下さるからである。つまり、ここには、イエス・キリストによる十字架の贖いが指し示されていると言ってよいだろう。
「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(2節)。
私達は日常生活において、何を「食べる」か、何を飲むか、何を着るかで頭が一杯になってはいないだろうか。足りなくても、有り余るほどあってもそうである。しかし、それらのものによって、私達の「魂」が潤されることはない。それどころか、得れば得るほど却って空しくなってくることさえある。
勿論物が豊かであるのは、悪いことではない。しかし、それは決して私達の「魂」を満たすことはない。私達の魂は、主なる神に聞き従うことによって初めて潤される。
「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。
私達は「悪」の道から離れ、罪を悔い改めて、主なる神に「立ち帰」らなければならない。その時、主なる神は豊かに「憐れ」み、「豊かに赦してくださる」。
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる」(6~7節)。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス