ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記23章

聖書日課 ヨブ記23章(新共同訳 旧約pp.805-806)

 テマン人エリファズの言葉を受けて、再びヨブが語り出した。これは、友人達に対して語られた言葉というよりも、寧ろ主なる神に対するヨブの「訴え」「嘆き」の言葉と言った方がいいだろう。

「ヨブは答えた。今日も、わたしは苦しみ嘆き/呻きのために、わたしの手は重い。どうしたら、その方を見いだせるのか。おられるところに行けるのか。その方にわたしの訴えを差し出し/思う存分わたしの言い分を述べたいのに」(1~4節)。

 ヨブは、自分の「訴え」を聞いてもらえさえすれば、主なる神はきっと自分を顧みて、身の潔白を認めて下さるに違いないと信じていた。

「しかし、神はわたしの歩む道を/知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば/金のようであることが分かるはずだ。わたしの足はその方に従って歩み/その道を守って、離れたことはない」(10~11節)。

 このように、ヨブは、どこまでも主なる神の正義を信じていた。しかし、主なる神はなおヨブに沈黙しておられた。

「だが、東に行ってもその方はおられず/西に行っても見定められない。北にひそんでおられて、とらえることはできず/南に身を覆っておられて、見いだせない」(8~9節)。

 これが、ヨブにとっての最大の苦しみだった。そして、主なる神の御心がどうしても分からないヨブにとって、それは大きな「恐れ」ともなっていた。

「神がいったん定められたなら/だれも翻すことはできない。神は望むがままに行われる。わたしのために定めたことを実行し/ほかにも多くのことを定めておられる。それゆえ、わたしは御顔におびえ/考えれば考えるほど、恐れる。神はわたしの勇気を失わせ/全能者はわたしをおびえさせる。わたしは暗黒を前にし/目の前には闇が立ちこめているのに/なぜ、滅ぼし尽くされずにいるのか」(13~17節)。

「なぜ」なのか? どうしてなのか? 人生には主なる神の御心が分からない故の苦しみというものがある。誰も慰めようのない苦しみ…。私達はここに、苦しみの中で主なる神と必死に格闘した信仰者の赤裸々な告白を見る。しかし、ここにも主なる神の恵みはあると言える。何故なら、主なる神はヨブを見捨てたのではなく、恵みを取り除いてしまったのでもなく、ヨブを信頼し、ヨブと共におられ、ヨブの苦しみと嘆きを一緒に耐えていて下さったということを、私達は知ることが出来るからである。だから、主なる神に苦しみを訴えることは良しとしても、主なる神を疑う理由は全くない。

「主よ、わたしはなお、あなたに信頼し/『あなたこそわたしの神』と申します」(詩編31編15節)。

西原新生バプテスト教会
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聖書日課 ヨブ記22章

聖書日課 ヨブ記22章(新共同訳 旧約pp.803-805)

 ヨブと友人達との3回目の討論がここから始まる。例によって「テマン人エリファズ」が最初に口を開いた。エリファズは、ヨブが主なる神に対して自分の潔白を主張するのを聞いて言った。

「テマン人エリファズは答えた。人間が神にとって有益でありえようか。賢い人でさえ、有益でありえようか。あなたが正しいからといって全能者が喜び/完全な道を歩むからといって/神の利益になるだろうか。あなたが神を畏れ敬っているのに/神があなたを責め/あなたを裁きの座に引き出されるだろうか。あなたは甚だしく悪を行い/限りもなく不正を行ったのではないか」(1~5節)。

 ここにはエリファズの神観が表されている。つまり、彼にとって神とは、因果応報の原理に従ってこの宇宙を機械的に治める超越的存在であり、人間と親しく交わる方ではなかった。だから、たとえヨブが正しく歩んでいたとしても、それで神が喜んだり、「神の利益になる」ようなことなどないというのである。エリファズは、ヨブが持っていたような主なる神との親しい交わりの中に生きていなかった。それ故、自分が主なる神に喜ばれるなどとは思いもよらなかった。

 更に、エリファズは「あなたが神を畏れ敬っているのに/神があなたを責め/あなたを裁きの座に引き出されるだろうか」と言っている。

 一貫して自分の潔白を主張し続けるヨブに対し、エリファズは、「神を畏れ敬っている」ヨブを主なる神が「責め」たり「裁きの座に引き出」したりする筈がないというのである。これは、これまでの意見と同様に、因果応報という考え方の繰り返しに過ぎない。

 あくまでも因果応報に固執するエリファズには、ヨブが受けているような、罪に対する裁き以外の苦難は想像もつかないことであった。これは裏を返せば、自分達の繁栄は、自分達の善行に対する当然の報いであるということである。そこには、主なる神の恵みによる祝福という考え方はない。また、彼の興味関心は、結局のところ目に見えるこの世の繁栄にあり、恵み深い神との親しい愛の交わりを切に求めるヨブの信仰とは全く違うものであった。

「あなたを尋ね求める人が/あなたによって喜び祝い、楽しみ/御救いを愛する人が/神をあがめよといつも歌いますように」(詩編70編5節)。

 さて、私達の信仰はどのようなものだろうか。

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聖書日課 ヨブ記21章

聖書日課 ヨブ記21章(新共同訳 旧約pp.802-803)

 ヨブはこれまで、自分が主なる神の前に潔白であることを訴えてきた。しかし、友人達は、それをヨブの頑なさと取り、自分達の考えに対する侮辱と理解した。そして、因果応報の考えによって、悪人は速やかに滅びると主張し続けた。

 ヨブは、そうした杓子定規な考え方に対して、現実の世界に存在する矛盾を取り上げて彼らの理論の間違いを指摘した。現実の世界では、「神に逆らう者」「幸せに人生を送り」、罪人が「安らかに」死を迎えることがあるではないか。確かに、悪人が滅ぼされることもあるかも知れない。しかし、実際のところ「神が怒って破滅を下したことが何度」あっただろうかと…(17節)。

「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ/年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き/その末を目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく/神の鞭が彼らに下ることはない。彼らの雄牛は常に子をはらませ/雌牛は子を産んで、死なせることはない。彼らは羊の群れのように子供を送り出し/その子らは踊り跳ね/太鼓や竪琴に合わせて歌い/笛を吹いて楽しむ。彼らは幸せに人生を送り/安らかに陰府に赴く」(7~13節)。

 ヨブは彼らの考えの限界をつきながら、彼らが現実を見ていないことを指摘した。更に、彼らは因果応報という考えを持ち出すことで、ヨブをやり込めようとした。これでは、ヨブを「慰める」ことなど出来る筈がない。ヨブは言う。

「あなたたちの考えはよく分かっている。わたしに対して不法にも悪をたくらんでいるのだ」(27節)。

「それなのに空しい言葉で/どのようにわたしを慰めるつもりか。あなたたちの反論は欺きにすぎない」(34節)。

 どんなに理屈は通っていても「空しい言葉」というものがある。口では「あなたのために」と言いながら、その実、相手をやり込めようとしていることもある。私達は、自分が語る言葉の背後にある動機や感情に目を留めることが大切である。

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソの信徒への手紙4章15節)。

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聖書日課 ヨブ記20章

聖書日課 ヨブ記20章(新共同訳 旧約pp.800-802)

 3人目の友人ツォファルが再び口を開いた。しかし、彼もまたヨブの言葉に苛立ち、興奮して、激しい言葉で反論してきた。しかも、その言わんとするところは、相も変わらず〈因果応報〉の考えそのものだった。「神に逆らう者の喜びは、はかなく/神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない」と、ヨブの罪を責め立てるばかりであった。

「ナアマ人ツォファルは答えた。さまざまな思いがわたしを興奮させるので/わたしは反論せざるをえない。あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる。明らかにすることを望んで、答えよう。あなたも知っているだろうが/昔、人が地上に置かれたときから/神に逆らう者の喜びは、はかなく/神を無視する者の楽しみは、つかの間にすぎない。たとえ彼が天に達するほど/頭が雲に達するほど上って行っても/自分の汚物と同様、永久に失われ/探す者は、『どこへ行ってしまったのか』と言わなければならなくなる」(1~7節)。

 それに加えて、今度は、ヨブの財産が「貧しい人々を虐げ見捨て」ることによって築いたものであり、ヨブが「自ら建てもしない家を奪い取」り(19節)、「欲望」に駆られて「食い尽く」すように得たものであるため、「彼の繁栄は長くは続」かなかったと言い放った(20~21節)。

 これらのツォファルの言葉を見ると、彼は一貫して、地上における繁栄を問題にしていることが分かる。しかし、ヨブが本当に問題にしていたのは、財産や健康のことよりも、寧ろ主なる神御自身との関わりだった。ヨブは、主なる神の恵みが取り去られてしまったことへの疑問を訴えていた。

 その点で、ツォファルは、ヨブの真の苦しみと訴えを全く理解していなかったことが分かる。それは、ツォファルの興味関心が、この世の富にしか向いていなかったからである。

 私達が人を裁く時にも同じことが起こる。私達が人を裁く時、それは相手の問題を明らかにするというより、自分自身の心の問題が、相手に投影されているだけということがある。この点、イエス・キリストは鋭い指摘をされている。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マタイによる福音書7章3節)。

 主の御言葉に照らして、自分自身を見つめることの大切さを教えられる。

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聖書日課 ヨブ記19章

聖書日課 ヨブ記19章(新共同訳 旧約pp.798-800)

 ヨブは、一日にして財産を失い、愛する子供まで失った。その上、重い皮膚病に犯され、妻にも愛想を尽かれ(17節)、使用人にさえ冷たくあしらわれるようになった(16節)。そして今、ヨブは、最後の頼みの綱である「親友」からも(19節)、全てはヨブの罪に対する報いであると責められ、心に深い傷を負わされた。彼はまさしくどん底の状態に陥れられていた。

 しかし、そのどん底から、ヨブの信仰の頂点とも言える一つの確信が湧き上がって来た! それは「わたしを贖う方」に対する確信である。

「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(25~27節)。

 ヨブはこれまで、主なる神に自分の潔白を訴え、それを証明してくれる存在を求めてきた(16章19~21節、17章3節)。しかし今、主なる神は罪ある自分を「贖う方」として自分のところに来て下さり、自分を死から解放し、義として下さるという確信に至った。

 それは、第三者的な仲裁者とか証人ではない。近親者として、罪も弱さも全て弁護し、保証し、代償を払って一切の責任を負って下さる存在である。遂にヨブは、友人達が主張するような、正義に従って報いる絶対者としての神ではなく、近親者として全てを背負い贖って下さる方としての神を、人生のどん底の中で見出し確信するようになった。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節)。

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(テモテへの手紙一2章5節)。

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キリスト者は主なる神の奴隷

キリスト者は主なる神の奴隷」

 人間は、主なる神の奴隷になるか、悪魔の奴隷になるか、どちらかしかない。非キリスト者は悪魔の奴隷である。だから、どうしても福音を受け入れられない。そして、主なる神の意志に従えない。一方、キリスト者になると、全生涯は主なる神のものになる。その結果、自分が思っていたこととは全く違う事態が次々にやって来る。思わぬことに遭遇し、思わぬ道に導かれ、思わぬ人と出会う。

 これは弟子達を見ても分かる。イエス・キリスト「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言われた時、ペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(マルコによる福音書8章31~32節)。

 弟子達の知恵は人間の知恵であり、彼らは人間的なストーリーを勝手に作っていた。即ち、イエス・キリストは、イスラエルの王となり、ローマ帝国を打ち破り、イスラエル民族を栄光と繁栄に導いてくれる筈だ、と。しかし、主なる神は、このような人間のストーリーを打ち砕かれた。イエス・キリストは、主なる神の御心に従って十字架につかれた。

 私達は人間の浅知恵で、自分勝手なストーリーを考え出す。しかし、主なる神は、ご自身が絶対的な主権者であることを私達に悟らせるために、そのようなストーリーを破壊する。人間が思いもよらぬ方法を使ったり、思いもよらぬ結果をもたらされる。キリスト者は、常に主なる神によって計画の変更を余儀なくされる

 主なる神は人間の計画通りに動かれる方ではない。キリスト者は主なる神の奴隷である。奴隷であるとは、自分の計画を捨てて、主なる神のご計画に合わせるということを意味する。

 勿論、私達はイエス・キリストにあって自由人である。しかし、これは、私達が自分の好きな道を歩む権利を与えられたということを意味しない。「昼は雲の柱が、夜は雲の柱が」イスラエルを導いたように(出エジプト記13章22節)、私達も、主なる神の導きとご計画に従って歩む以外にはない。

 だから、結果を急いではならない。自分のやった仕事がすぐに実を結ばなくても、それは、主なる神のご計画なのだから、忍耐して待つ以外にはない。失敗して惨めな姿になったとしても、思わぬ妨害によって計画が頓挫したとしても、主なる神がそうされたのだから、焦る必要はない。私達は、ただ「火の柱」「雲の柱」に付いて行けばよい。結果は主なる神に委ねるべきである。

 主なる神は、人間が傲慢にならないように、また主なる神を舐めることがないように、人間の計画を挫折させることがある。モーセは、40歳の時、自分の計画を立てて、イスラエルを救おうとした。しかし、そこで彼はエジプト人を殺してしまった(出エジプト記2章11~12節)。良いことをしようとしたのに、逆に人殺しという大きな罪を犯してしまった。その後、モーセは、40年間、羊飼いとして無為とも思える生活を強いられた。しかし、その中でモーセは、主なる神の一方的な計画に従えるようになった。

 私達が気にするべきことは、主なる神の御国建設の具体的なプロセスではない。自分に与えられた小さな仕事を毎日きちんとこなすことである。そうすれば、主なる神はその小さな仕事を用い、それをご自身の大きな計画の中の一つの歯車として用いて下さる

 全体的な計画について心配するのは主なる神だけでよい。私達は、川を流れるボートの上に乗って、ただ流されていればよい。私達の仕事は、ボートの中に座って網を作ることかもしれない。或いは、その網を水辺に投げて魚を獲ることかも知れない。いずれにせよ、私達は自分がこれからどういう過程で河口まで辿り着くかなど心配する必要はない。私達は、自分に与えられた人、仕事、持ち場に集中すればよい

 キリスト者は主なる神の奴隷である自分を投げ出して、主なる神のご計画に全て委ねる時、主なる神は、私達を用いて何か素晴らしいことを成し遂げて下さる。

主日礼拝祈祷 2023年1月8日

主日礼拝祈祷 2023年1月8日

 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中に私達を置いて、御前に引き寄せて下さったことを心から感謝致します。
 主よ、私達は「自分の思うように生きたらよい」という悪魔の誘惑に負け、自分自身の考えや希望、都合をあなたの御言葉よりも優先してしまうことがありました。そして、それが賢い生き方だと自分を正当化してきました。
 しかし、主よ、あなたの御子イエス・キリストはあなたの御心だけを行い、ご自身を十字架にお捨てになりました。御子の完全な謙遜が悪魔の力を打ち砕きました。そして高慢な私達を暗闇の支配から御子の支配へと移して下さいました。主よ、御子イエス・キリストの十字架の御業をほめたたえます。あなたの導きによって、御子と出会った私達が、この喜びを深め、隣人と分かち合っていくことが出来ますように。
 主よ、私達が、御子イエス・キリストの命に結ばれていることにいつも感謝し、この一年、あなたの御旨に従って生きることが出来ますよう、聖霊によって助けて下さい。毎日あなたの御言葉によって私達を導き、生かして下さい。抱えている問題に度々押し潰されそうになる私達を励まし、天を仰いであなたの素晴らしさを思うことを教えて下さい。あなたの御言葉を慕い求め、あなたの教えを喜びとし、あなたの口から出る一つ一つの御言葉が私達を生かすものであることを、この生涯を通して体験させて下さい。
 主よ、救いを求めている人の声に耳を傾け、お一人お一人の口に表すことの出来ない思いを受けとめて下さい。不安や悩みの中にある方、病に苦しむ方を憐れみ、その傍に今日もあなたが共にいて守り支えて下さい。そして、あなたのお言葉によって、あなたの命をお一人お一人に注ぎ、生かして下さい。癒して下さい。立ち上がる力を、希望を与えて下さい。
 主よ、争いや対立の絶えない世界に平和の道を示して下さい。戦争・内戦の中にある方々と共にあって下さい。権力による圧迫や迫害を受けている人々をお守り下さい。あなたの助けのもとに、自由で平穏な日々を取り戻すことが出来ますように。私達が生活している沖縄も、中国が艦船の領海侵犯に加え、太平洋上で戦闘機の離発着訓練を行ったり、与那国島波照間島の周辺に弾道ミサイルを撃ち込むなど、明らかに他国への攻撃を想定した威圧を繰り返し、緊迫した情勢にあります。日本政府は自衛隊を増強するなど、防衛力強化に進めていますが、戦争による惨禍が沖縄の地で再び起こることがありませんように。武力によってもたらされる殺戮や破壊から私達を守って下さい。解決への道が示され、真の平和が一日も早く訪れますように。
 世の闇を照らす希望の光であられる私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2023年1月8日(日) 週報

2023年1月8日(日) 降誕節第3主日

○礼拝プログラム
招詞 ヨシュア記1章5節
讃美 67(よろずのもの とわにしらす)
交読 申命記8章1~10節(新共同訳 旧約p.294)
主の祈り
聖書拝読 ルカによる福音書4章1~13節(新共同訳 新約p.107)
祈り 柏本隆宏協力牧師
暗唱聖句 ローマの信徒への手紙8章1~2節
讃美 161(イマヌエルのきみのみ 勝ちて世をば統べます)
宣教 「荒れ野の試み」柏本隆宏協力牧師
讃美 285(主よ、み手もて ひかせたまえ)
聖餐式
祈り
奉献
頌栄 543(主イエスのめぐみよ)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○1月の暗唱聖句
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」(ローマの信徒への手紙8章1~2節)

○報告
1. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。
2. イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受けることを希望される方、また西原新生教会への転入会を希望される方は、柏本協力牧師までお申し出下さい。
3. 本日、今年一年間の保護と祝福を祈願して聖餐式が行われます。主イエス・キリストの十字架の御苦難と死を偲びつつ聖餐の恵みに与りましょう。
4. 礼拝後、クリスマスの装飾の片付けと会堂の清掃を行います。皆で心を合わせて、教会の内外を綺麗に致しましょう。
5. 先週教会員の姉妹がご家族と一緒に久しぶりに主日礼拝に出席されました。姉妹は現在病と戦っておられます。御父が姉妹を御子イエス・キリストの血潮によって覆い、サタンや悪霊のあらゆる影響から守って下さいますように。そして、姉妹が、聖霊の恵みと助けによって、自分の思いを主なる神の御言葉に委ね、御子イエス・キリストにある平安と安息に留まることが出来ますように。
6. 昨年度より配布を行ってきたトラクトが残り僅かとなりました。この教会の使命である「沖縄の地にあって主なる神のご栄光を現す」ために、今年も伝道に励みましょう。配布が完了しましたら、新しいトラクトの作成に取りかかります。
7. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

○聖書日課
8日(日) ヨブ記17章
9日(月) ヨブ記18章
10日(火) ヨブ記19章
11日(水) ヨブ記20章
12日(木) ヨブ記21章
13日(金) ヨブ記22章
14日(土) ヨブ記23章

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聖書日課 ヨブ記18章

聖書日課 ヨブ記18章(新共同訳 旧約pp.797-798)

 再び「シュア人ビルダド」が口を開いた。今回の言葉には、友人ヨブに対する配慮は欠片も見られない。ビルダドは、ヨブを「神に逆らう者」と決め付け、「灯はやがて消え」ると断罪している。

「シュア人ビルダドは答えた。いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか。まず理解せよ、それから話し合おうではないか。なぜ、わたしたちを獣のように見なすのか。その目に愚か者とするのか。怒りによって自らを引き裂く者よ/あなたのために地が見捨てられ/岩がその場所から移されるだろうか。神に逆らう者の灯はやがて消え/その火の炎はもはや輝かず/その天幕の灯は暗黒となり/彼を照らす光は消える」(1~6節)。

 以前の言葉には、まだヨブへの気遣いが見られた(8章)。ヨブに対して回復の道があることを述べている。しかし、今回の言葉では、そのような気遣いは全く消え失せ、「神に逆らう者」(ヨブ)の滅びを、これでもかこれでもかと捲くし立てるばかりである。それは殆ど脅しと言ってもよい内容である。

 いわゆる〈教条主義〉の恐ろしさがここに見られる。自分の考えにあくまでも固執することの愚かさと言ってもいいかも知れない。しかも、それが言葉による暴力にまでなり果てていることに、当の本人は全く気付いていなかった。

 こうして、財産をなくし、子供を失い、妻にも冷たくあしらわれたヨブは、最後に、長年の親友達にさえ深く傷つけられ、文字通り身も心もボロボロの状態に追いやられてしまった。

 ところが、この最低最悪の状況の中から、ヨブの信仰の頂点とも言える贖い主への確信が生まれ出てくる(19章25~27節)! どん底に落ちれば落ちるほど、傷が深まれば深まるほど、ヨブの信仰もより一層深まっていった。

 私達の人生に起こることで、意味のないこと、無駄なことなど一つもない。私達はここにも、主なる神の恵みを見ることが出来る。何という希望、何という恵みだろう!

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聖書日課 ヨブ記17章

聖書日課 ヨブ記17章(新共同訳 旧約p.797)

 ヨブの言葉が続く。ヨブは最早死を覚悟するようになっていた。いや、ヨブにとって死は寧ろ苦しみからの解放であった。

「息は絶え、人生の日は尽きる。わたしには墓があるばかり」(1節)。

 しかし、たとえ死んで肉体の苦しみはなくなっても、人々が自分を罪ある者とすることに違いはない。人々は相変わらず苦難の中にあるヨブを非難し、彼を嘲っていた。

「人々はなお、わたしを嘲り/わたしの目は夜通し彼らの敵意を見ている」(2節)。

 では、最終的にヨブの無実を証明してくれるのは誰か?

 それは、主なる神以外に存在しない。ヨブは、主なる神が自分との恵みの契約を取り去ってしまったと言って、主なる神に訴えかけていた。しかし、それでも最後に拠り頼むことが出来るのは、主なる神以外に有り得なかった。主なる神以外に、ヨブの潔白を保証してくれる方を期待しようがなかった。

 それ故、ヨブは主なる神に願い出た。

「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰が/わたしの味方をしてくれましょう。彼らの心を覆って目覚めることのないようにし/彼らを高く上げないでください」(3~4節)。

 ここにヨブの覚悟が見られる。たとえ自分に理解出来ないことがあったとしても、そのために死ぬほどの苦しみに遭っていたとしても、主なる神の真実は疑いようもないこと、そして真実の神に拠り頼む以外に道はないことを、ヨブは悟っていた。

 たとえ状況はどうであれ、あくまでも主なる神に信頼するという信仰、それがこの苦しみの中でヨブが到達した信仰の境地だった。それは、バビロン捕囚の時代に、異国の地で主に仕え続けた3人の若者の信仰にも見られる真の信仰者の姿である。

「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。『このお定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません』」(ダニエル書3章16~18節)。

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