ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記16章

聖書日課 ヨブ記16章(新共同訳 旧約pp.795-797)

 ヨブは友人達に対してもう匙を投げていた。どんなに説明しても、友人達は「慰める振りをして苦しめ」、自分の考えから全く離れようとせず、ヨブの立場に立って物事を見ようとしなかったからである。

「ヨブは答えた。そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる。『無駄口はやめよ』とか/『何にいらだって/そんな答えをするのか』と言う」(1~3節)。

 ヨブは主なる神に対しても訴えた。

「語っても苦しみはやまず/黙っていても、それは去りません。もう、わたしは疲れ果てました。わたしの一族をあなたは圧倒し、わたしを絞り上げられます。このわたしの姿が証人となり/わたしに代わって抗議するでしょう」(6~8節)。

 しかし、ヨブは決して自分の身の潔白を証明することを諦めたわけではなかった。「わたしの手には不法もなく/わたしの祈りは清かったのに」とヨブはどこまでも身の潔白を主なる神に対して主張し続けた(17節)。

 そして、このような苦しみの中で、ヨブの心の中には新しい信仰の理解と希望が湧き上がってきた。彼は言った。

「このような時にも、見よ/天にはわたしのために証人があり/高い天には/わたしを弁護してくださる方がある。わたしのために執り成す方、わたしの友/神を仰いでわたしの目は涙を流す。人とその友の間を裁くように/神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように」(19~21節)。

 ヨブは、「天には」必ず自分の無実を証明してくれる「証人」がいて、その方が自分を「弁護して」くれるに違いないという確信を持つようになった。その御方がきっと自分を「執り成」し、正しい裁きをしてくれる。そして、その方は主なる神御自身であると信じるようになっていった。

 これは9章33節の気付きの延長線上にある悟りであり、主なる神の真実と誠実に対する打ち消すことの出来ない確信から生まれた理解であったに違いない。そして、これはヨブにとって、苦しみの中で見出したただ一つ拠り頼むことの出来る道であったに違いない。

「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマの信徒への手紙8章34節)。

西原新生バプテスト教会
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〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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聖書日課 ヨブ記15章

聖書日課 ヨブ記15章(新共同訳 旧約pp.794-795)

 ヨブ記は、ここからヨブと3人の友人達の第2の対話に入る。対話の口火を切ったのは、「テマン人エリファズ」だった。

 エリファズが最初にヨブに語りかけた時には、まだヨブへの気遣いが伺えた(4章)。しかし、友人達の因果応報に基づく考えを一向に受け入れようとしないヨブに対し、最早気遣いは消え去り、彼らの言葉は厳しい意見と激しい非難の応酬のような状況に陥っていった。

「テマン人エリファズは答えた。知恵ある者が空虚な意見を述べたり/その腹を東風で満たしたりするであろうか。無益な言葉をもって論じたり/役に立たない論議を重ねたりするであろうか。あなたは神を畏れ敬うことを捨て/嘆き訴えることをやめた。あなたの口は罪に導かれて語り/舌はこざかしい論法を選ぶ。あなたを罪に定めるのはわたしではなく/あなた自身の口だ。あなたの唇があなたに不利な答えをするのだ」(1~6節)。

 エリファズは、ヨブが「神を畏れ敬うことを捨て」たと非難し、ヨブの語る言葉は「罪に導かれて」いると決め付けた。更に、「あなたの知っていることで/わたしたちの知らないことがあろうか。わたしたちには及びもつかないことを/あなたが悟れるというのか。わたしたちの中には白髪の老人もあり/あなたの父より年上の者もある」と言って(9~10節)、彼は、ヨブよりも自分達の方が知恵も経験も豊富であると主張した。

 最初のうちは余裕をもってヨブに語りかけていたエリファズも、次第にヨブに苛立ちを覚え始め、遂に憤って、本音を露にしてしまった。エリファズは、ヨブよりも自分の方が上だと考えていたのである。

 このように、人の上に自分を置く者は、自分の言うことを素直に聞く者には優しく丁寧に接するが、そうでない者には苛立ちと憤りを示す。しかも、それを主なる神の知恵であるとしてしまう。しかし、そこには主なる神の深い忍耐と憐れみの心はなく、ただ自分の思いだけが表されている。その根底には自分の方が上だという隠された誇りがある。

 これは、主イエス・キリストと正反対のあり方である。イエス・キリストは、病める人、貧しい人、苦しむ人と共におられた。それは主の恵みと謙りによる祝福である。私達もその祝福に与った。それ故、私達もイエス・キリストのあり方に倣う者でありたいと思う。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、…互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」(フィリピの信徒への手紙2章3節、5節)。

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聖書日課 ヨブ記14章

聖書日課 ヨブ記14章(新共同訳 旧約pp.792-793)

 ヨブの言葉が続く。これまで見たように、ヨブは主なる神に向かって自分の潔白を主張した。今自分が受けている苦難は自分の罪のためではないことを、友人達と主なる神に対して訴えた。

 しかし、だからと言って、ヨブは自分に全く罪がないと言っているのではない。ヨブは、自分が弱くて儚い罪人であることを明確に自覚していた。そして、そのような弱い人間の一人に過ぎない自分が、恵みによって主なる神の僕とされていることに、ヨブの信仰と人生の根拠があった。

 だが今、その主なる神の恵みが失われてしまったとしか思えない状況にヨブは陥っていた。それ故、ヨブは主なる神に訴えた。

「人は女から生まれ、人生は短く/苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ/影のように移ろい、永らえることはない。あなたが御目を開いて見ておられるのは/このような者なのです。このようなわたしをあなたに対して/裁きの座に引き出されるのですか。汚れたものから清いものを/引き出すことができましょうか。だれひとりできないのです」(1~4節)。

 そこでは、「女から生まれ」た弱い罪人の自分が、主なる神の「裁きの座に引き出され」たらひとたまりもないと言っている。また、生まれつき「汚れた」罪人から、「清いものを/引き出すこと」「できない」とも言っている。

 だからこそ、ヨブは、更に率直にこう祈った。

「呼んでください、わたしはお答えします。御手の業であるわたしを尋ね求めてください。その時には、わたしの歩みを数えてください。わたしの過ちにもはや固執することなく、わたしの罪を袋の中に封じ込め/わたしの悪を塗り隠してください」(15~17節)。

 ここには、罪を赦す主なる神に対する信頼が明確に表れている。その根底には、どこまでも主なる神の恵みに拠り頼むヨブの信仰がある。何故なら、ヨブにとっては、それ以外に真の希望は有り得ないのだから。

「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソの信徒への手紙1章7節)。

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聖書日課 ヨブ記13章

聖書日課 ヨブ記13章(新共同訳 旧約pp.791-792)

 13章は、前章に続いて友人達に対するヨブの答えである。しかし、前半19節までは友人達に向かっての言葉だが、20節からは主なる神に向かっての言葉となっている。これは苦しみ故の混乱とも考えられる。しかし、それ以上に、ヨブが本当に対話したかったのは人間ではなく主なる神であったからだろう。

「ただ、やめていただきたいことが二つあります/御前から逃げ隠れはいたしませんから。わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください。そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。罪と悪がどれほどわたしにあるのでしょうか。わたしの罪咎を示してください。なぜ、あなたは御顔を隠し/わたしを敵と見なされるのですか」(20~24節)。

 というのも、ヨブの苦しみには2つの面があった。それは、物質的・肉体的な苦難と、霊的な意味での苦難である。ヨブは、この2つの苦しみをどちらも主なる神によるものと理解していた。それ故、彼は率直に「わたしの上から御手を遠ざけてください。御腕をもって脅かすのをやめてください」と、物質的・肉体的苦しみからの解放を祈り求めた。

 また、霊的な意味での苦難は、主なる神が沈黙してヨブに語りかけて下さらないこと、そして苦難の意味を教えて下さらないことことにあった。それ故、ヨブは「そして、呼んでください、お答えします。わたしに語らせてください、返事をしてください。…なぜ、あなたは御顔を隠し/わたしを敵と見なされるのですか」と主なる神に訴えた。

 ヨブは言う。

「たとえこの身を自分の歯にかけ/魂を自分の手に置くことになってもよい。そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう」(14~15節)。

 ヨブの真剣さ、必死な思いがひしひしと伝わってくる場面である。こういう場面を読むと、やはりヨブは真の信仰者であり、真の礼拝者であったことがよく分かる。何故なら、これほどの苦しみに遭っても、彼はなお主なる神に向かい、主なる神に語りかけ、主なる神からの答えを待ち望み続けていたのだから。ヨブ自身もこう主張している。

「神を無視する者なら/御前に出るはずはないではないか」(16節)。

 主なる神の御前に居続けること、それが信仰であり礼拝である。

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悔い改めは一度でいい

「悔い改めは一度でいい」

 悪魔は「お前の罪は決して赦されない」と責めてくる。

 そこで「主よ、赦して下さい」と何度も何度も祈り、過去の罪について後悔する人がいる。しかし、これは悪魔の術中にはまっている

 悪魔が望んでいるのは、私達がイエス・キリストの赦しに対する疑いを強めることであり、キリスト者を不信仰に陥れることである。

「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」(詩編51編19節)。 

 主なる神は、私達が悔い改めたことをいつまでも責め続けるような方ではない。

 主なる神の善意を誤解させ、私達にいつまでも自分の内面を見つめさせようとするのは、悪魔の常套手段である。

 私達が創造された目的は、自分の内面を見つめて、一喜一憂しながら無為に時を過ごすことではない。主なる神の創造の御業に参加し、この世を主なる神の御国に変え、「すべての民」イエス・キリスト「弟子」とすることである(マタイによる福音書28章19節)。

"Let's forget about ourselves and magnify the Lord and worship Him!" (自分を忘れ、主の御名をあがめ、主を礼拝しよう!)

という讃美歌にある通りである。

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 勿論、罪を犯しても、それに無頓着でいいというわけではない。罪を犯してしまったらすぐに悔い改めよう。どんな些細な罪でも悔い改めることなしには、私達は決して主なる神の御心に適った者にはならない。

 その一方で、同じ罪について悔い改めを繰り返すのも主なる神の御心ではない。悔い改めは一度でいい。

聖書日課 ヨブ記12章

聖書日課 ヨブ記12章(新共同訳 旧約pp.789-791)

 3人目の友人ツォファルが話し終えたところで、ヨブは3人の友人達に向かって答えた。

「ヨブは答えた。確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ。あなたたち同様、わたしにも心があり/あなたたちに劣ってはいない。だれにもそのくらいの力はある。神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと/安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ」(1~5節)。

「あなたたち」は皆「ひとかどの」人間だが、あくまでも死ぬべき人間であり、死と共にその「知恵も死ぬ」。自分もあなたたちと同じくらいの知恵と力は持ち合わせており、「だれにもそのくらいの力はある」。ヨブはそのように言って、自分が特別な知恵者であるかのように語る彼らの高慢を指摘した。

 更に、ヨブは、主なる神と語らい、「神に従う無垢な人間」の自分が、苦難を受けることで「物笑いの種」にされてよいのかと問いかける。「安泰に暮らす者」が、苦しみの中にある者を教え諭すということの中に、密かな高ぶりと蔑みの心があることを指摘し、反論したのである。実に鋭い指摘である。

 しかし、彼らは決してヨブを笑い者になどしてはいなかった。彼らは、ヨブの苦難を知ってはるばる遠方から駆けつけ、彼の苦しみを見て共に苦しんでくれた友人である。問題は、彼らの理解に限界があったことにある。しかも、彼ら自身は、その限界を認めておらず、気付いてすらいなかった。

 自分の弱さや限界に目を留め、それを誤魔化したり、隠したりすることなく、受けとめつつ反省し、学びつつ成長する。そのような姿勢を身に着けたいものである。それはイエス・キリストの弟子に相応しいあり方である。何故なら、聖書における〈弟子〉という言葉には、〈学ぶ者〉という意味があるからである。主イエス・キリストから学び続ける者、それがイエス・キリストの弟子であり、キリスト者である。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章29節)。

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主日礼拝祈祷 2023年1月1日

主日礼拝祈祷 2023年1月1日

 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな憐れみ、深い慈しみの中に置いて、御前に近く引き寄せて下さったことを心から感謝致します。
 主よ、新しい年を、あなたと共に始めることが出来、心から感謝致します。また、過ぎた一年、あなたから多くの恵みをいただき、ありがとうございます。西原新生バプテスト教会に集う一人一人にとって、新しい年が素晴らしい年でありますように。
 主よ、この一年、「霊と真理をもって」あなたにお仕えすることが出来ますように(ヨハネによる福音書4章23節)。私達の内に住まわれる聖霊の助けによってあなたに対する私達の「信仰と、希望と、愛」を強めて下さい(コリントの信徒への手紙一13章13節)。あなたの御言葉によって私達を教え、励まし、生かして下さい。日々の生活を通して、全ての人の救い主、御子イエス・キリストを証しすることが出来ますように。
 主よ、新しい年、あなたに頼る者を握って下さり、一人一人を祝福して下さい。置かれた状況の中で、あなたに対する信頼とあなたの希望を告白しながら毎日を過ごすことが出来ますように。いかなる困難がやって来ても、あなたが握っておられる者を損なうことが出来るものはありません。あなたの恵みに支えられ、困難を乗り越えることが出来ますように。
 主よ、弱っている方、苦しみ、痛みの中にある方の傍に、今日もあなたが共にいて守り支えて下さい。お一人お一人の口に表すことの出来ない思いをあなたが受けとめて下さい。特に、戦争・内戦の中にあって苦しんでいる人の希望を支え、解放の時を早めて下さい。世界各地の人々の平和への願いと行動が実を結びますように。
 感謝して、私達の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2023年1月1日(日) 週報

2023年1月1日(日) 降誕節第2主日(新年礼拝)

○礼拝プログラム
招詞 詩編96編1~2節
讃美 66(聖なる、聖なる、聖なるかな)
交読 歴代誌下7章11~22節(新共同訳 旧約pp.679-680)
主の祈り
聖書拝読 ルカによる福音書2章41~52節(新共同訳 新約pp.104-105)
祈り 柏本隆宏協力牧師
讃美 272(ナザレのふせやに つかれをいとわで)
宣教 「十二歳のイエス」柏本隆宏協力牧師
讃美 285(主よ、み手もて ひかせたまえ)
祈り
奉献
頌栄 542(世をこぞりて)
祝祷 柏本隆宏協力牧師
報告

○報告
1. 謹んで新年のご挨拶を申し上げます新しい年を主への礼拝をもって始めましょう。
2. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。
3. イエス・キリストを主と信じ、バプテスマを受けることを希望される方、また西原新生教会への転入会を希望される方は、柏本協力牧師までお申し出下さい。
4. 1月8日(日)、今年一年間の保護と祝福を祈願して聖餐式が行われます。主イエス・キリストの十字架の御苦難と死を偲びつつ聖餐の恵みに与りましょう。
5. 1月8日(日)の礼拝後、クリスマスの装飾の片付けと会堂の清掃を行います。皆で心を合わせて、教会の内外を綺麗に致しましょう。
6. 昨年度より配布を行ってきたトラクトが残り僅かとなりました。配布が完了しましたら、新しいトラクトの作成に取りかかりましょう。
7. ブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージを載せていますので、日々の聖書通読の一助としてご参照下さい。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

○聖書日課
1日(日) ヨブ記10章
2日(月) ヨブ記11章
3日(火) ヨブ記12章
4日(水) ヨブ記13章
5日(木) ヨブ記14章
6日(金) ヨブ記15章
7日(土) ヨブ記16章

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聖書日課 ヨブ記11章

聖書日課 ヨブ記11章(新共同訳 旧約pp.788-789)

 遂に3人目の友人「ナアマ人ツォファル」が口を開いた。彼は最初から激しい口調でヨブを非難した。それは、ヨブの激しい言葉に反応したものと思われる。信仰の故とはいえ、やはり激しさは激しさを生み出す。

「ナアマ人ツォファルは話し始めた。これだけまくし立てられては/答えないわけにいくまい。口がうまければそれで正しいと/認められるだろうか。あなたの無駄口が人々を黙らせるだろうか。嘲りの言葉を吐いて/恥をかかずに済むだろうか」(1~3節)。

 ツォファルも、他の2人の友人と同じく、ヨブの苦難をヨブの罪の故の裁きであると主張した。そして、ヨブに悔い改めを勧めた。

「もし、あなたも正しい方向に思いをはせ/神に向かって手を伸べるなら、また、あなたの手からよこしまなことを遠ざけ/あなたの天幕に不正をとどめないなら、その時こそ/あなたは晴れ晴れと顔を上げ、動ずることなく/恐怖を抱くこともないだろう」(13~15節)。

 ツォファルも、ヨブのことを全く思っていなかったわけではない。ヨブの回復と再興を願っていた。しかし、そのためには、ヨブが罪を捨てて主なる神に立ち帰らなければならないと主張した。それは全くの誤解であり完璧な決め付けであるにもかかわらず、彼自身には全くそのことが分からない。ここに人間の認識の頑固さと愚かさを見ることが出来る。私達は、常に主なる神に心を向け、主なる神から正しい認識と判断をいただくことが大切である。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか」(ルカによる福音書6章41~42節)。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(ルカによる福音書6章37節)。

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聖書日課 ヨブ記10章

聖書日課 ヨブ記10章(新共同訳 旧約pp.787-788)

 謹んで新年のご挨拶を申し上げます!
 2023年も、主と共に歩む恵みと平和と祝福溢れる日々でありますように!
 本年も、どうか宜しくお願い致します。


 ヨブの「嘆き」が続く。しかし、ヨブの「嘆き」は、独り言のようなものではなく、主なる神に向かってまっすぐに本音をぶつけるものであった。

「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう。神にこう言おう。『わたしに罪があると言わないでください。なぜわたしと争われるのかを教えてください。手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて/あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか』」(1~3節)。

 それは、或る意味で一つの信仰の姿と言えるだろう。信仰者は、喜びや感謝を主なる神に献げるだけでなく、悲しみや苦しみも主なる神に告白し、ぶつける。順境でも逆境でも、信仰者はいつも主なる神と向き合い続ける。

 ヨブの信仰は、この他にも見ることが出来る。

「あなたはわたしを乳のように注ぎ出し/チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ/それに皮と肉を着せてくださった。わたしに命と恵みを約束し/あなたの加護によって/わたしの霊は保たれていました」(10~12節)。

 ここでヨブは、自分が主なる神によって造られた存在であると告白している。主なる神はヨブに「命」を与え、「恵み」によって彼の「霊は保たれてい」たというのである。ここには律法による義ではなく、主なる神の恵みによる義に通じる信仰が芽吹いている。

 従って、ヨブの苦しみは、恵みの神が最早恵みの神でなくなってしまったというところにあった。それは、ヨブにとって、自分の存在の意味と根拠を失ってしまうことでもあった。だからこそ、ヨブの苦しみは深かった。ヨブは必死にもがいた。自分の信仰と存在の全てをかけて。

「なぜ、わたしを母の胎から引き出したのですか。わたしなど、だれの目にも止まらぬうちに/死んでしまえばよかったものを。あたかも存在しなかったかのように/母の胎から墓へと運ばれていればよかったのに」(18~19節)。

 このヨブの言葉の激しさは、決して不信仰とか主なる神への反逆ではない。彼の信仰故の激しさであり、自分自身の存在の意味と根拠をかけた必死の叫びだった。ここに、主なる神を本気で信じて生きる者の姿がある。

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