ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

キリスト者は主なる神の奴隷

キリスト者は主なる神の奴隷」

 人間は、主なる神の奴隷になるか、悪魔の奴隷になるか、どちらかしかない。非キリスト者は悪魔の奴隷である。だから、どうしても福音を受け入れられない。そして、主なる神の意志に従えない。一方、キリスト者になると、全生涯は主なる神のものになる。その結果、自分が思っていたこととは全く違う事態が次々にやって来る。思わぬことに遭遇し、思わぬ道に導かれ、思わぬ人と出会う。

 これは弟子達を見ても分かる。イエス・キリスト「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言われた時、ペトロは「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」(マルコによる福音書8章31~32節)。

 弟子達の知恵は人間の知恵であり、彼らは人間的なストーリーを勝手に作っていた。即ち、イエス・キリストは、イスラエルの王となり、ローマ帝国を打ち破り、イスラエル民族を栄光と繁栄に導いてくれる筈だ、と。しかし、主なる神は、このような人間のストーリーを打ち砕かれた。イエス・キリストは、主なる神の御心に従って十字架につかれた。

 私達は人間の浅知恵で、自分勝手なストーリーを考え出す。しかし、主なる神は、ご自身が絶対的な主権者であることを私達に悟らせるために、そのようなストーリーを破壊する。人間が思いもよらぬ方法を使ったり、思いもよらぬ結果をもたらされる。キリスト者は、常に主なる神によって計画の変更を余儀なくされる

 主なる神は人間の計画通りに動かれる方ではない。キリスト者は主なる神の奴隷である。奴隷であるとは、自分の計画を捨てて、主なる神のご計画に合わせるということを意味する。

 勿論、私達はイエス・キリストにあって自由人である。しかし、これは、私達が自分の好きな道を歩む権利を与えられたということを意味しない。「昼は雲の柱が、夜は雲の柱が」イスラエルを導いたように(出エジプト記13章22節)、私達も、主なる神の導きとご計画に従って歩む以外にはない。

 だから、結果を急いではならない。自分のやった仕事がすぐに実を結ばなくても、それは、主なる神のご計画なのだから、忍耐して待つ以外にはない。失敗して惨めな姿になったとしても、思わぬ妨害によって計画が頓挫したとしても、主なる神がそうされたのだから、焦る必要はない。私達は、ただ「火の柱」「雲の柱」に付いて行けばよい。結果は主なる神に委ねるべきである。

 主なる神は、人間が傲慢にならないように、また主なる神を舐めることがないように、人間の計画を挫折させることがある。モーセは、40歳の時、自分の計画を立てて、イスラエルを救おうとした。しかし、そこで彼はエジプト人を殺してしまった(出エジプト記2章11~12節)。良いことをしようとしたのに、逆に人殺しという大きな罪を犯してしまった。その後、モーセは、40年間、羊飼いとして無為とも思える生活を強いられた。しかし、その中でモーセは、主なる神の一方的な計画に従えるようになった。

 私達が気にするべきことは、主なる神の御国建設の具体的なプロセスではない。自分に与えられた小さな仕事を毎日きちんとこなすことである。そうすれば、主なる神はその小さな仕事を用い、それをご自身の大きな計画の中の一つの歯車として用いて下さる

 全体的な計画について心配するのは主なる神だけでよい。私達は、川を流れるボートの上に乗って、ただ流されていればよい。私達の仕事は、ボートの中に座って網を作ることかもしれない。或いは、その網を水辺に投げて魚を獲ることかも知れない。いずれにせよ、私達は自分がこれからどういう過程で河口まで辿り着くかなど心配する必要はない。私達は、自分に与えられた人、仕事、持ち場に集中すればよい

 キリスト者は主なる神の奴隷である自分を投げ出して、主なる神のご計画に全て委ねる時、主なる神は、私達を用いて何か素晴らしいことを成し遂げて下さる。