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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記19章

聖書日課 ヨブ記19章(新共同訳 旧約pp.798-800)

 ヨブは、一日にして財産を失い、愛する子供まで失った。その上、重い皮膚病に犯され、妻にも愛想を尽かれ(17節)、使用人にさえ冷たくあしらわれるようになった(16節)。そして今、ヨブは、最後の頼みの綱である「親友」からも(19節)、全てはヨブの罪に対する報いであると責められ、心に深い傷を負わされた。彼はまさしくどん底の状態に陥れられていた。

 しかし、そのどん底から、ヨブの信仰の頂点とも言える一つの確信が湧き上がって来た! それは「わたしを贖う方」に対する確信である。

「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る/ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(25~27節)。

 ヨブはこれまで、主なる神に自分の潔白を訴え、それを証明してくれる存在を求めてきた(16章19~21節、17章3節)。しかし今、主なる神は罪ある自分を「贖う方」として自分のところに来て下さり、自分を死から解放し、義として下さるという確信に至った。

 それは、第三者的な仲裁者とか証人ではない。近親者として、罪も弱さも全て弁護し、保証し、代償を払って一切の責任を負って下さる存在である。遂にヨブは、友人達が主張するような、正義に従って報いる絶対者としての神ではなく、近親者として全てを背負い贖って下さる方としての神を、人生のどん底の中で見出し確信するようになった。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節)。

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(テモテへの手紙一2章5節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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