ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 出エジプト記23章

聖書日課 出エジプト記23章(新共同訳 旧約pp.131-133)

 23章にも幾つかの律法が記されている。その中で、少し目を留めてみたいのは、新共同訳で〈敵対する者とのかかわり〉という見出しが付けられている4~5節である。

「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」(4~5節)。

 敵対する人物の「ろばが迷っている」のを見かけたら、必ず「連れ戻」してあげること、また、「ろばが荷物の」下敷きになっていたら、必ず敵対する人物と「共に助け起こさねばならない」ことが命じられている。

 日本では、昔から「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言われる。「敵対する奴のろばなんか助けてやるもんか!」と息巻く人がいても不思議ではない。〈やられたら、やり返す〉、それが、罪ある人間の本性なのだろう。だから、聖書のこういう箇所を見ると、現実離れした教えであるかのように感じる人も多いのではないか。

 しかし、よく考えてみると、逆に、これは非常に現実的な教えなのではないか。第一に、〈やられたら、やり返す〉ということでは、問題がより一層泥沼化し、憎しみと苦しみが増幅してしまう。だから、問題をそれ以上大きくしないために、これは必要な行動である。第二に、それは、敵に貸しを作ることになる。少なくとも、そうすることで、自分の立場が悪くなることはない。そして、第三に、それは、何よりも自分自身の罪の本性に打ち勝つ行為となる。つまり、感情に振り回されずに自分を保つことが出来る。実はこれが一番大切なことかも知れない。

 勿論、これはかなり処世訓的な解釈かも知れない。しかし、この教えが「必ず~ならない」という強い言い方がされているのは、そういう現実的な意味があるからではないか。つまり、これは人間関係を築く上での現実的な知恵であり、助けとなる教えである。現実離れした理想を勧めているのではない。

 しかし、主イエス・キリストは、この律法の教えの意味を更に深めて言われた。

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイによる福音書5章44節)。

 敵のろばを助けるだけではなく、敵自身を愛し、敵のために祝福を祈ること、それがイエス・キリストの教えである。これは、単なる処世訓の次元を超えて、霊的な次元、霊的な命と力によるしか成し得ようのないことである。そして、これこそが、律法の背後にある心であるに違いない。それは、自分の罪を悟り、主なる神の御前に謙る者に与えられる主なる神の愛である。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス

f:id:Biblicism:20210602142922p:plain

https://nschrist1972.hatenablog.com/
〈地図〉

www.google.com