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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書20章

聖書日課 エゼキエル書20章(新共同訳 旧約pp.1324-1327)

 エゼキエル達が捕囚となって「七年」目の「五月」「十日」に、イスラエルの長老たち数人が、主の御心を問うために」エゼキエルのもとにやって来た。それはまだエルサレムが陥落する前であり、これから自分達はどうなるのか、主なる神は自分達を助けて下さるのか、どうすれば自分達は救われるのかを主なる神に尋ねようとしたものと思われる。

 ところが、主なる神の答えは、「わたしは生きている。お前たちが尋ねても、わたしは答えない」というものであった。

「第七年の五月のことであった。その月の十日に、イスラエルの長老たち数人が、主の御心を問うために来て、わたしの前に座った。そのとき、主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの長老たちに語り、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。お前たちはわたしの意志を問うために来たのか。わたしは生きている。お前たちが尋ねても、わたしは答えない、と主なる神は言われる』」(1~3節)。

 答えられないのではなく、答えないというのである。一体これはどういうことなのだろうか? 何故主なる神は彼らに答えて下さらないのだろうか?

 それは、以前にも見たように、彼らが未だに偶像を捨て去っていなかったからである(14章3節参照)。主に尋ねながら偶像にも仕えている。それは、主なる神の御心に聞き従う意志がないことを意味していた。彼らは結局自分達にとって都合の良い道を求めていたに過ぎず、そこには主なる神を信頼する心も愛する思いもなかった。それ故、主なる神は彼らに答えようとしなかった。

 4節以降には、イスラエルが選ばれた日からバビロンによって滅び去る日までの歴史が述べられている。そこからも分かるように、彼らは結局最後まで偶像を完全に捨て去ることはなかった。

 しかし、主なる神は、そのような彼らに対し、「その後、お前たちは必ずわたしに聞き従い、二度と偶像に贈り物をささげて、わたしの聖なる名を汚すことはなくなる」と宣言された(39節)。そして「わたしが、先祖に与えると誓った地、イスラエルの土地に導き入れるとき、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と言われた(42節)。勿論それは、彼らが契約を守ったからではない。「お前たちの悪い道や堕落した行いによることなく、わが名のゆえに、わたしが働きかけるとき、イスラエルの家よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と主なる神は言われる(44節)。

 イスラエルの堕落と裏切りにもかかわらず、主はなお彼らを赦し、清め、回復された。そこに主なる神の名(本質)が現された。約束に誠実な主、罪人をなお赦し愛する慈しみ深い神の姿が! そして主なる神の宣言通り、その後のイスラエルは、今に至るまで偶像礼拝に陥ることはなかった。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの憐れみ、あなたの慈しみの中に支え、背負って下さることを、心から感謝致します。

 主よ、あなたは私の悪さ、腐敗と罪によって私をあしらわず、ただあなたの聖なる御名にかけて、私を御前に握って下さいました。

 主よ、この心の中にある自分ではどうすることも出来ない罪を憎みます。どうかあなたの十字架の血潮を注ぎ、清めて下さい。あなたの御心から離れようとする思いを、断ち切って下さい。あなたの御思いを自分の心として毎日を歩むことが出来るよう、助け、導いて下さい。

 困難の中にあるお一人お一人にあなたの御目を注ぎ、今日、あなたに全てを委ねることが出来るよう、お導き下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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