聖書日課 エゼキエル書14章(新共同訳 旧約pp.1313-1315)
エゼキエルのもとに「イスラエルの長老数名」がやって来た(1節)。彼らは、主なる神の御旨を尋ねに来た。しかし、彼らは決して主なる神に対する純真な思いを持っていたわけではなかった。彼らは「偶像を心に抱」いていた。
「イスラエルの家の者と、イスラエルの中に寄留している外国人のうち、わたしから離れて偶像を心に抱き、つまずかせる罪を目の前に置いていながら、わたしに尋ねようと預言者のもとに来る者には、だれに対しても、主なるわたし自身が答えよう。わたしはその者に向かって顔を向け、彼をしるしとし、ことわざとして、わが民の中から断つ。そのときお前たちは、わたしが主であることを知るようになる」(7~8節)。
「偶像」とは、偽りの神のことであるが、それは必ずしも宗教的なものだけではない。お金でも、名誉でも、人でも、自分自身でも、私達の心に主なる神以上に大切なもの、主なる神以上に価値あるものがあるとすれば、それは皆「偶像」となる。
主なる神によって造られた人間にとって、主なる神は関心の的となるべき存在であり、第一に愛すべき存在であり、絶対に従うべき存在である。もし私達の心に主なる神以上のものがあるとすれば、それは偽りの神、即ち「偶像」を心に抱いているということである。
主なる神は、そのような二心を嫌われる。そして、「わたしはその者に向かって顔を向け、彼をしるしとし、ことわざとして、わが民の中から断つ」と宣言された(8節)。
いや、彼らだけではない。もし「預言者」が、「偶像」を心に抱く者の求めに応じて語るようなことがあれば、「わたしは彼の上に手を伸べ、わが民イスラエルの中から絶ち滅ぼす」と言われた(9節)。「偶像」を心に抱いて尋ねる者も、彼らの求めに応じる「預言者」も、共に同じ罪の中にあるからである。
何と厳しい宣告だろう。しかし、私達は知らなければならない。主なる神は、彼らを滅ぼすためにそう言われたのではないということを。
「『それは、イスラエルの家がもはやわたしから迷い出ず、あらゆる背きによって二度と自分を汚さないためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる』と主なる神は言われる」(11節)。
私達が神の民となり、主なる神が私達の神となること、主なる神の願いはただこの一つである。そこに、私達の真の救いと幸福があるからである。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの溢れる恵みの中に置き、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。
主よ、この心を御覧下さい。私の中にダブルスタンダードはないでしょうか。私の中に二心はないでしょうか。
主よ、私が自分の思いの実現を第一としようとした時、あなたは私に立ち向かわれました。私の思いを退けられました。しかし、あなたは私を見捨てず、あなたの御心を求める者となるよう、私を導いて下さいました。
今も、日々自分の思い、欲望が湧き上がって来ます。主よ、日々、それらを捨てることが出来るよう、日々、心の中の偶像を捨てていくことが出来るよう、導き、清めて下さい。
今日もあなたの子供達を導き、自分の思いを捨てる自由と祝福を与え、あなたの言葉によって生かされる喜びを満たして下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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