「役に立たぬぶどうの木」、それが新共同訳における本章のタイトルである。「ぶどうの木」は、イスラエルを指している。そのイスラエルが「もはや何の役にも立たない」とは(5節)、一体どういうことだろうか。
「主なる神の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘を作ることができるだろうか。それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。完全なときでさえ何も作れないのに、まして火に焼かれて焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか』」(1~5節)。
「ぶどうの木」は、曲がっていることが多いため、木材として使うには適さない。かといって、「何かの器物を掛ける釘を作る」には、やわらか過ぎる。そのような「ぶどうの木」が、「火に焼かれて焦げてしまったら」…、確かに「もはや何の役にも立たない」と言われても仕方がないかも知れない。
しかし、そもそも「ぶどうの木」にとって最も大切なことは何だろうか。勿論、「木材」になることでも「釘」になることでもないのは確かである。そう、「ぶどうの木」は〈実〉をみのらせてこそ意味がある。
神の民イスラエルは、信仰の〈実〉をみのらせることによって、主なる神に喜ばれ、人々に祝福をもたらす存在になる筈だった。ところが、彼らは主なる神への信仰を捨て、却って主なる神に反逆した。そのため、主なる神を悲しませ、人々から軽蔑される存在となってしまった。それが「何の役にも立たない」ということの意味である。
〈実〉とは一体何だろうか。それは信仰から出て来る良い行いであり、信仰を証しする生活である。新約的には、それはイエス・キリストを信じる者の内におられる聖霊の働きの結果として生まれる〈御霊の実〉(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)と言うことが出来るだろう。それによって、信じる者の内にキリストが形づくられていく(ガラテヤの信徒への手紙4章19節)。
では、どうやって〈実〉をみのらせることが出来るだろうか。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネによる福音書15章5節)。
主イエス・キリストに「つながってい」ること、それが「豊かに実を結ぶ」秘訣である。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみの中に私を置き、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。
主よ、今日、あなたに接木された枝として、あなたに留まることが出来ますように。あなたの言葉に留まることが出来ますように。あなたの命こそが私の命であり、あなたの血潮が、私の血です。あなたに繋がっていなければ、私は、存在理由も存在価値もない者です。
私は、あなたの枝ですから、あなたが良いと思われるように剪定し、無駄なところ、悪いところを取り去って下さい。
今日もあなたの子供達が、あなたの枝としてあなたに留まることが出来ますよう、お導き下さい。あなたの命を注ぎ、血を注ぎ、豊かな実を結ぶよう生かして下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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