聖書日課 哀歌4章(新共同訳 旧約pp.1292-1294)
4章では、1~10節にわたって、エルサレム滅亡の悲惨な情景が記されている。
「山犬ですら乳を与えて子を養うというのに/わが民の娘は残酷になり/荒れ野の駝鳥のようにふるまう。乳飲み子の舌は渇いて上顎に付き/幼子はパンを求めるが、分け与える者もいない」(3~4節)。
飢えに苦しむ「乳飲み子」や「幼子」の姿ほど心痛むものはない。しかし、エルサレムでは、更に恐ろしいことさえ起こっていた。
「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした。わたしの民の娘が打ち砕かれた日/それを自分の食糧としたのだ」(10節)。
これはもう地獄と言ってよいだろう。極限状態に置かれた人間は、獰猛な獣と化すことすらある。
それにしても、神の民と呼ばれた人々が、どうしてこんなところまで落ちてしまうことになったのだろう。何故これほどまでの悲惨を味わう結果になってしまったのだろう。哀歌はこう語っている。
「これはエルサレムの預言者らの罪のゆえ/祭司らの悪のゆえだ。エルサレムのただ中に/正しい人々の血を注ぎ出したからだ」(13節)。
主なる神の言葉を語り伝えるべき「預言者」が偽りの言葉を語り、主なる神と人を結び付けるべき「祭司」が「悪」を行って、「正しい人々の血」を流し続けた罪。「エルサレム」の惨状の原因はここにあると聖書は明言する。
もし「預言者」が主なる神の言葉をまっすぐに語り続け、また「祭司」が、正しい裁きを行って、人々を主なる神のもとへ正しく導き続けていたなら、「エルサレム」にこれほどの悲惨が訪れることはなかったに違いない。
しかし、ここで少し振り返ってみたい。預言者とは誰のことだろう。また祭司とは誰のことだろう。それは今、イエス・キリストを信じるキリスト者一人一人であり、キリストの体である教会ではないだろうか。つまり、私達には、この現代社会に主なる神の言葉を正しく伝え、一人でも多くの人を主なる神のもとへ導く使命が与えられている。そして、そのためにこそ、私達は今ここに生かされている。そのためにも、今私達は、主なる神の御声に耳を傾けることが何よりも大切である。
西原新生バプテスト教会
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