聖書日課 哀歌3章(新共同訳 旧約pp.1288-1292)
国を失い、神殿を失い、財産の全てを失って、捕囚の民とされたイスラエル。絶望と恐れのどん底に陥った神の民。しかし、その暗闇の極みの中で、信仰者の目は再び主なる神へと向けられた。
「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。わたしは言う/『わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう』と」(17~18節)。
人間の絶望は主なる神の希望の始まりである。1日の終わりが新しい1日の始まりに繋がっているように、人間の力の限界は、主なる神の可能性が開かれる時となる。
兄エサウの恨みをかい、家族のもとを逃げ出したヤコブは、荒れ野の暗闇の中でたった一人石を枕にして野宿していた。その時、夢の中で主なる神に出会った。絶望と孤独のどん底で、ヤコブは主なる神に出会ったのである。眠りから覚めたヤコブは、恐れおののいて言った。
「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創世記28章16~17節)。
絶望の極みとしか思えない暗闇のその場所が、「神の家」、「天の門」だった。ヤコブの驚きはどんなに大きなものだっただろう。彼はその場に石を立て、油を注いで主を礼拝した。それはヤコブにとって信仰と献身の表明だった。
バビロン捕囚の苦しみの中で、神の民は、再び主なる神に目を向けることを学んだ。
「苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む」(19~21節)。
その時、彼らは知った。
「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない」(31~33節)。
だからこそ、哀歌はこう勧める。
「軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ」(28~30節)。
そして、哀歌はこう宣言する!
「主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る」(25~27節)。
西原新生バプテスト教会
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