ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 哀歌3章

聖書日課 哀歌3章(新共同訳 旧約pp.1288-1292)

 国を失い、神殿を失い、財産の全てを失って、捕囚の民とされたイスラエル。絶望と恐れのどん底に陥った神の民。しかし、その暗闇の極みの中で、信仰者の目は再び主なる神へと向けられた。

「わたしの魂は平和を失い/幸福を忘れた。わたしは言う/『わたしの生きる力は絶えた/ただ主を待ち望もう』と」(17~18節)。

 人間の絶望は主なる神の希望の始まりである。1日の終わりが新しい1日の始まりに繋がっているように、人間の力の限界は、主なる神の可能性が開かれる時となる。

 兄エサウの恨みをかい、家族のもとを逃げ出したヤコブは、荒れ野の暗闇の中でたった一人石を枕にして野宿していた。その時、夢の中で主なる神に出会った。絶望と孤独のどん底で、ヤコブは主なる神に出会ったのである。眠りから覚めたヤコブは、恐れおののいて言った。

「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(創世記28章16~17節)。

 絶望の極みとしか思えない暗闇のその場所が、「神の家」「天の門」だった。ヤコブの驚きはどんなに大きなものだっただろう。彼はその場に石を立て、油を注いで主を礼拝した。それはヤコブにとって信仰と献身の表明だった。

 バビロン捕囚の苦しみの中で、神の民は、再び主なる神に目を向けることを学んだ。

「苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても再び心を励まし、なお待ち望む」(19~21節)。

 その時、彼らは知った。

「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても/それが御心なのではない」(31~33節)。

 だからこそ、哀歌はこう勧める。

「軛を負わされたなら/黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ」(28~30節)。

 そして、哀歌はこう宣言する!

「主に望みをおき尋ね求める魂に/主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る。若いときに軛を負った人は、幸いを得る」(25~27節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

メールアドレス

https://nschrist1972.hatenablog.com/
〈地図〉

www.google.com