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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 民数記22章

聖書日課 民数記22章(新共同訳 旧約pp.251-253)

 イスラエルの民は死海(「塩の海」(34章3節))の東側を北上し、カナンの東側から約束の地に入って行くことを計画していた。

 それに対し、アモリ人の王シホンは彼らの行く手を阻むために闘いを挑んできた。しかし、主なる神の圧倒的な支援を受けて、イスラエルは勝利した。ここまでが21章の内容である。

 すると、イスラエルがアモリ人に対してした事をことごとく見」「恐れを抱い」たモアブの王バラクが(3節)、使者を預言者バラムのもとに遣わし、イスラエルを呪うように要請した(5~6節)。

 アブラハムの時代にメルキゼデクという崇高な大祭司が存在していたように、この時代にもイスラエルの系譜以外に預言者がいた。しかし、バラムは、異教の影響を受け、預言を金儲けの手段とするような世俗的な預言者であった。

 そこでバラムが主なる神に伺いを立てると、主なる神は「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」と言われた(12節)。

 これまでのイスラエルの旅路を振り返ると、不平や不満、背信や失敗の連続だった。しかし、主なる神は、そのような彼らのことを「彼らは祝福されている」と言われた。主なる神が祝福された者を「呪ってはならない」。いや、呪うことなど出来ない。

 人が見るのと、主なる神が御覧になるのとでは違うことを学ぶべきである。

 さて、バラムはバラク王の依頼を一度は断ったが、「バラクはもう一度、前よりも多くの、位の高い使者を遣わした」(15節)。しかも、使者に「あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします」とまで言わせた(17節)。

 ここまで言われて、バラムはやはり行こうかと思い始めた。そこで彼は下心をもってもう一度祈った。もしかしたら行ってもいいと許可が出るかも知れないと期待しつつ……。すると、主なる神はバラムに、今度は「立って彼らと共に行くがよい」と言われた(20節)。バラムはこれ幸いといそいそと出発した。

 主なる神がバラムに「行くがよい」と言われたのは、イスラエルを呪うためではなく、祝福を祈らせるためであった。しかし、主は、バラムに邪悪な心があることを見抜いて、彼の行く手で不思議な出来事を体験させた。

 バラムが乗るろばは、「主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのを見た」ため、恐ろしくなって立ち止まった。しかし、それが見えないバラムは、ろばを何度も打ち叩いてバラク王のもとへ進もうとした(23~27節)。その時、主なる神が「ろばの口を開かれた」(28節)。ろばが話し出す……不思議な光景である。

 しかし、エルサレムに入城されたイエス・キリストを讃美する人々を、ファリサイ派の人々が黙らせようとした時、主は「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」とお答えになっている(ルカによる福音書19章40節)。主なる神は、ろばにも言葉を授けることが出来る。

 ろばでさえ事の次第が分かっているのに、バラムは分かっていなかった。バラク王が提示した報酬に目が眩み、物事を正しく見ることが出来なくなっていたのである。

 富は人の目に覆いをかけてしまう。

 ペトロはバラムのことを「正しい道から離れてさまよい歩き」「不義のもうけを好」んだと評している(ペトロの手紙二2章15節)。バラムは一見主なる神に従っているようであるが、邪悪な心を持ち続けた人物である。

 キリスト者の中にもバラムのような生き方が忍び込んでくる。だから、主は言われた。「あなたはわたしに向かって道を進み、危険だったから、わたしは妨げる者として出て来たのだ」と(32節)。

 もし私達が「正しい道から離れてさまよい歩」いているならば、主なる神が「妨げる者」として私達の「行く手に立ちふさがって」下さるように(34節)。そして、主なる神が立ちはだかっておられることに気付くよう、主が私達の目を開いて下さるように。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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