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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 哀歌2章

聖書日課 哀歌2章(新共同訳 旧約pp.1286-1288)

 エルサレム崩壊の惨状は、実に見るも無残なものだった。主なる神は、バビロンの手によって徹底的にエルサレムを壊滅された。そして、それは全て、王をはじめとするユダの人々の罪に対する主なる神の「怒り」の現れだった。

「なにゆえ、主は憤り/おとめシオンを卑しめられるのか。イスラエルの輝きを天から地になげうち/主の足台と呼ばれたところを/怒りの日に、見放された。ヤコブの人里をすべて、主は容赦せず圧倒し/憤って、おとめユダの砦をことごとく破壊し/この国を治める者、君侯らを/地に打ち倒して辱められた」(1~2節)。

 今も主なる神は、罪に対して徹底的に「怒り」を発せられる。主なる神は、罪を見逃したままにしておかれることはない。その最も顕著な現れが主イエス・キリストの十字架である。父なる神は、私達人間の全ての罪に対する「怒り」を、あの十字架の上に一気に発せられた。その意味で、十字架は決してアクセサリーなどではない。恐ろしいほど深く大きな神の「怒り」の発露である。

 しかし、十字架に現された主なる神の「怒り」が激しければ激しいほど、私達の罪の赦しはますます深く、ますます確かなものとなる。何故なら、十字架は私達の身代わりであり、十字架の上に現された主なる神の「怒り」は、本来私達の上に注がれるべきものだったからである。

 だが、時々私達は思わないだろうか。確かに自分は完璧な人間ではないけれども、イエス・キリストに身代わりに死んでもらうほど大きな罪を犯した覚えはないと。そして、そのために、私達の悔い改めが不徹底なものになってしまっていることはないだろうか。

 その結果、私達は、救いの確信が曖昧で、赦しの喜びも小さなものでしかないということが起こる。しかし、それは折角の主の十字架の恵みを無駄にすることでなくて何だろうか!

 今日私達の心には、主なる神に赦されている喜びと感謝が溢れているだろうか。また、今日私達の中には、十字架によって救われた確信が湧き上がっているだろうか。もし喜びも確信も曖昧であるなら、私達は今ここで改めて、主の御前に自分の罪を認め、赦しと救いの確信と喜びに満たしていただこう。

「高く、あがめられて、永遠にいまし/その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み/打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」(15節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの温かい御手の中に握り、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。

 主よ、私の罪は私の目の前にあります。罪深いこの私をお赦し下さい。そして、罪から立ち帰り、あなたの御心に従って歩む者となることが出来るよう、導いて下さい。

 どうか、あなたの十字架の血潮を注いで、罪がもたらしたこの存在の裂け目に、あなたご自身が入って来て下さい。そこをあなたご自身で満たして下さい。私は、罪を離れ、あなたのところに帰ることが出来るでしょう。

 主よ、あなたの温かな御手を感謝します。

 尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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