聖書日課 イザヤ書64章(新共同訳 旧約pp.1166-1167)
63章7節から64章にかけて、罪と滅びに陥った神の民の、悔い改めと執り成しの祈りが記されている。
「わたしたちは皆、汚れた者となり/正しい業もすべて汚れた着物のようになった。わたしたちは皆、枯れ葉のようになり/わたしたちの悪は風のように/わたしたちを運び去った」(5節)。
罪を犯さないことはとても大切である。しかし、それと共に大切なことは、罪に陥った時に、素直に罪を悔い改め、即座に主なる神に立ち帰ることである。何故なら、私達は皆罪ある者として生まれ、悔い改めて罪を赦されて救われる者だからである。
その意味で、こういう悔い改めの祈りは、私達にとって慰めであり、また罪に陥った私達がどう祈ったらよいかというモデルでもある。
しかし、罪に陥った私達は、悔い改めて主なる神に立ち帰るよりも、寧ろますます主なる神から離れ、主なる神への期待を失ってしまうことが多い。
「あなたの御名を呼ぶ者はなくなり/奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたはわたしたちから御顔を隠し/わたしたちの悪のゆえに、力を奪われた」(6節)。
これが罪の故に滅ぼされた多くのイスラエルの人々の現実だった。
しかし、その苦しみと恥辱の中で、やがて「父」なる神への信仰を呼び覚まされ、主なる神を呼び求める人々が現れてきた。
「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業。どうか主が、激しく怒られることなく/いつまでも悪に心を留められることなく/あなたの民であるわたしたちすべてに/目を留めてくださるように」(7~8節)。
たとえ腐っても、滅びても、それでも自分達は主なる神を「父」と仰ぐ民とされた者であるという自覚。それは、罪の中から再び主なる神に立ち帰る上で大きな力となる。主なる神は、悔い改めて謙る者を、いつでも喜んで迎え入れて下さる。放蕩息子を大喜びで走り寄って迎えた父親のように。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの絶大な恵みの御手の中に握って、御前に置いて下さることを心から感謝致します。
主よ、この心を治めて下さい。あなたに心を向けることよりも、自分の思いに傾いてしまいます。あなたの「御手の業」でこの心を造り変え、あなたの御姿を反映することが出来る者として下さい。天で行われているあなたの御心がこの地で行われるために、小さな働きを為すことが出来る者へと造り変えて下さい。
主よ、あなたの命の勝利を共に喜び、あなたをほめたたえることが出来ますよう、お一人お一人を導き、祝福して下さい。どうか、絶大なあなたの命をお一人お一人に注いで下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス