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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エレミヤ書37章

聖書日課 エレミヤ書37章(新共同訳 旧約pp.1247-1248)

 ユダの王ゼデキヤは、預言者エレミヤに使者を送り、「どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい」と願い出た。

「ゼデキヤ王は、シェレムヤの子ユカルと祭司であるマアセヤの子ツェファンヤとを預言者エレミヤのもとに遣わして、『どうか、我々のために、我々の神、主に祈ってほしい』と頼んだ」(3節)。

 主なる神に仕える預言者に祈りを求めるのだから、信仰深い王なのかと思うが、御言葉にはこう書かれている。

「王も家来も国の民も、主が預言者エレミヤによって告げられた主の言葉に聞き従わなかった」(2節)。

 これは一体どういうことだろうか? 一方で、「主に祈ってほしい」と願っているのに、もう一方では、「主の言葉に聞き従わなかった」というのである。信仰があるのかないのか、果たしてどちらなのだろう?

 ここから、ゼデキヤ王の信仰がどういうものであったのかが分かる。つまり、ゼデキヤは、自分の願い――バビロンからの解放――を叶えて欲しいと思っていたが、主の御心に聞き従う心は持っていなかった。

 勿論、「祈ってほしい」とお願いするのは素晴らしいことである。しかし、それだけでは、本当の信仰ではない。信仰とは「主の言葉に聞き従」うことだからである。そういう意味で、ゼデキヤ王の信仰は、単なる御利益信仰であり、そこには罪の悔い改めも、主なる神への従順も全くなかった。

 さて、私達の信仰のあり方はどうだろうか。私達は御心に聞き従って日々歩んでいるだろうか。

「お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」(イザヤ書50章10節)。

「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、これらの祝福はすべてあなたに臨み、実現するであろう」(申命記28章1~2節)。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな恵みの御手の中に置いて、御前に引き寄せて下さったことを心から感謝致します。

 主よ、あなたの御言葉を求めながら、それをただの参考程度にしか受け取らない私達人間の罪をお赦し下さい。私達が、あなたの御言葉に聞き従うことが出来ますように。

 たとえ、それが屈辱的なことに思えても、それを通して私達に謙遜を教え、私達を新たに造り変えようとしておられるあなたの恵みのご計画を信じることが出来ますよう、助けて下さい。

 どうか、揺れ動く私達の心をあなたご自身が握って下さい。あなたなしには生きることも死ぬことも出来ない私達を憐れみ、その御手から投げ捨てないで下さい。

 主よ、あなただけが私達の希望、あなただけが私達の命と死を握る方です。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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