聖書日課 エレミヤ書13章(新共同訳 旧約pp.1200-1202)
或る日主なる神は、エレミヤが締めていた「麻の帯」を「ユーフラテス」の「岩の裂け目に隠」させ、「多くの月日」の後、再び「帯を取り出」すよう命じられた。すると、「帯は腐り」果て、「全く役に立たなくなっていた」(1~7節)。その時、エレミヤに「主の言葉」が「臨んだ」。
「主の言葉がわたしに臨んだ。主はこう言われる。『このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった」(8~10節)。
ここには、イスラエルの人々に対する主なる神の期待と、その期待が裏切られた深い悲しみが込められている。
「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし、彼らは聞き従わなかった」(11節)。
ボクシングのチャンピオンが誇らしげに腰に締めるベルトのように、主なる神はイスラエルをその「身にしっかりと着け」て、「名声、栄光、威光を示すものにしよう」と願っておられた。「しかし、彼らは聞き従わなかった」。それ故、滅びが目の前に迫っていた。
この時、エレミヤは言った。
「あなたたちが聞かなければ/わたしの魂は隠れた所でその傲慢に泣く。涙が溢れ、わたしの目は涙を流す。主の群れが捕らえられて行くからだ」(17節)。
エレミヤは〈涙の預言者〉と呼ばれる。それは、多くの迫害を受けた自分のために流した涙ではなく、主なる神に対して高ぶり、反逆し続けるイスラエルの民のために流した涙であった。このように、エレミヤは、主なる神の悲しみを自分の悲しみとして生きた預言者だった。
主なる神の喜びを喜びとし、主なる神の悲しみを悲しみとする。ここに主なる神と共に生きる者の姿がある。
西原新生バプテスト教会
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