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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エレミヤ書10章

聖書日課 エレミヤ書10章(新共同訳 旧約pp.1194-1197)

 10章には、「偶像」を拝む愚かさと真の神の偉大さが対照的に述べられている。

イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。もろもろの民が恐れるものは空しいもの/森から切り出された木片/木工がのみを振るって造ったもの。金銀で飾られ/留め金をもって固定され、身動きもしない。きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず/歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも/幸いをもたらすこともできない」(1~5節)。

 偶像は人の手によって造られた。どんなに見栄えが良くても、「身動き」もせず、「口も利けず」、ただ「運ばれて行く」だけである。そのような偶像には、「災いをくだすことも/幸いをもたらすこともできない」。そのことは、エレミヤの時代の人々も理解していただろう。

 しかし、彼らがそのような偶像と真の神を見分ける知恵と信仰を持っていたかと言えば、悲しいことに、そうではなかった。

 どうして彼らは偶像を捨て去ることが出来なかったのか。それは、彼らの心の奥底にあった高ぶりと貪欲の罪が、理性を曇らせ、意志を軟弱にし、彼らを真の神から引き離してしまっていたからである。

 彼らは、確かに真の神を知っていた。主なる神に選ばれ、愛され、助けられ、主なる神の偉大な救いの御業を体験してさえいた。しかし、彼らは、自分の中にある高ぶりと貪欲の罪を悔い改めようとしなかった。主なる神の御前に謙り、主に聞き従って生きる決心を曖昧なままにしていた。

「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(8節)。

 神についての知識があるだけでは、真実な信仰とは言えない。真実の信仰とは、主なる神の御前にひれ伏し、その御声に聞き従うことである。

 あなたは真の神を知っているだろうか。そして、その御声に忠実に聞き従って生きているだろうか。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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