聖書日課 イザヤ書65章(新共同訳 旧約pp.1167-1169)
65章では、イスラエルに対する主なる神の熱い思いが表されている。
「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた」(1~2節)。
たとえ彼らが主なる神を無視しようとも、主なる神は彼らに向かって「わたしはここにいる」と呼びかけて下さる。また、彼らが主なる神に逆らい、自分勝手な「道を歩」んでいる時にも、主なる神は彼らに「絶えることなく手を差し伸べてきた」というのである。
ところが、イスラエルの民は、それでもなお主なる神に逆らい続けた。彼らは偶像を拝み、汚れた行為に耽り、「悪」を行い、弱者を虐げ続けた。ここまで来ると、もう彼らに弁解の余地はない。それゆえ主なる神は言われた。
「見よ、わたしの前にそれは書き記されている。わたしは黙すことなく、必ず報いる。彼らのふところに報いる。彼らの悪も先祖の悪も共に、と主は言われる。彼らは山の上で香をたき/丘の上でわたしを嘲った。わたしは、初めから彼らがしてきた業を量り/そのふところに報いる」(6~7節)。
このように主なる神は、主なる神の呼びかけに応えることなく、あくまで罪と「悪」の道を歩み続ける民に対し、「必ず」報復される。しかし、それで全てが終わりではない。主なる神は、裁きの中で主に立ち帰る人を必ず起こして下さる。
「主はこう言われる。ぶどうの房に汁があれば、それを損なうな/そこには祝福があるから、と人は言う。わたしはわが僕らのために/すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を/ユダからわたしの山々を継ぐ者を引き出そう。わたしの選んだ者らがそれを継ぎ/わたしの僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ/アコルの谷は牛の伏すところとなり/わたしを尋ね求めるわが民のものとなる」(8~10節)。
主なる神は、一度壊れた交わりを再び回復して下さる方である。主なる神が神の民を見捨てたままにしておくことなど決してない! たとえ無視しても、逆らっても、主なる神はそれでも私達に「わたしはここにいる」と絶えることなく救いの手を差し伸べて下さる。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス