ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書11章

聖書日課 エゼキエル書11章(新共同訳 旧約pp.1308-1310)

 エゼキエルが幻を見たのは、エルサレムが滅亡する直前のことであっただろうと思われる。イスラエルの中には、自分達は神の民であり、自分達の国には神殿があるから、バビロンが襲って来ても守られると主張する人々や、より現実的に、エジプトの力に頼ってバビロンと戦おうとする人々もいた。

「霊はまた、わたしを引き上げ、主の神殿の東に面する東の門へ運んで行った。門の入り口に二十五人の男がおり、その中に民の指導者であるアズルの子ヤアザンヤと、ベナヤの子ペラトヤがいるのをわたしは見た。主はわたしに言われた。『人の子よ、この人々はこの都の中で悪をたくらみ、悪い計画を立てている。彼らは、『家をすぐに建てる必要はない。この都は鍋で、我々は肉だ』と言っている。それゆえ、彼らに向かって預言せよ。人の子よ、預言せよ』」(1~4節)。

 幻に登場する「悪をたくらむ」人々は、「この都は鍋で、我々は肉だ」と言っている。これは、火が鍋を溶かすことは出来ないように、たとえ火で取り囲まれても、この都は守られ、鍋の中の肉が燃えることはないように、都にいる自分達も守られるという意味である。また「家をすぐに建てる必要はない」というのは、まずバビロンと戦うのが先決だということである。

 しかし、エゼキエルやエレミヤによって示された主の御心は、これとは違っていた。イスラエルは、バビロンを通して与えられる裁きを潔く受け、捕囚とされて行くバビロンの地で生きるべきだった。この時、主はエゼキエルに言われた。

「それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった』」(16節)。

 イスラエルの罪を裁かれた主なる神は、それでもなお彼らのために「ささやかな聖所」となって下さったというのである。裁きは、彼らを滅ぼし尽くすためではない。罪を悔い改めて主に立ち帰った彼らを再び呼び集めて、約束の地に連れ戻すためだった。

 この時、イスラエルの人々がなすべきことはただ一つ、主なる神に立ち帰ることであった。あの放蕩息子が、放蕩の果てに父親のもとに勇気をもって帰って行ったように、イスラエルの人々も、罪を悔い改めて父なる神のもとに帰ることが何より大切なことだった。放蕩息子の父が息子の帰りを大喜びで迎え入れて祝宴を催してくれたように、父なる神は、永遠の赦しと救いと祝福をもって、神の民が帰って来るのを待っていて下さる。真の喜びと平和がそこにある。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

メールアドレス

https://nschrist1972.hatenablog.com/
〈地図〉

www.google.com