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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 イザヤ書59章

聖書日課 イザヤ書59章(新共同訳 旧約pp.1158-1159)

 イスラエルの人々は、宗教的にはいつも熱心な人々だった。彼らは、盛んに儀式を執り行い、献げ物をし、宗教を信じて生きていた。

 ところが、その時彼らは主なる神の助けも救いも得られなかった。彼らは「光を望んだが」「闇に閉ざされ」「輝きを望んだが、暗黒の中を歩いてい」た(9節)。どんなに彼らが主なる神に呼びかけても、その声が主なる神に届くことはなかった。

 何故宗教に熱心な彼らがそのような状態に陥っていたのだろうか。預言者イザヤは、はっきりとこう語っている。

「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む」(1~4節)。

 どんなに多くの献げ物をしても、どんなに熱心に儀式を執り行っても、私達の中に罪があるならば、主なる神と私達の間は隔てられたままである。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ/恵みの業はわたしたちに追いつかない」(9節)。

 儀式や形式よりも大切なことは、私達自身が主なる神の御前に謙り、自分自身を省み吟味して、正され、赦され、清められることである。私達は主なる神に何かをする前に、主なる神に私達を取り扱っていただく必要がある。

「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる」(20節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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