聖書日課 イザヤ書58章(新共同訳 旧約pp.1156-1158)
目に見える形式は全て整っているけれども、その本質からは遠く離れてしまっているということが信仰の世界にはありがちである。58章では、その一例として「断食」が取り上げられ、規定通りに食を断ち、「頭を垂れ」、「粗布を敷き、灰をま」いて断食しても、そのような断食によっては、「お前たちの声が天で聞かれることはない」と厳しく警告されている。
「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか」(3~5節)。
何故なら、彼らは「断食の日にしたい事をし」、自分達のために「労する人々を追い使」い、「断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう」ようなことをしていたからである。
断食とは単に食を断つことではない。「悪による束縛を断ち」、「虐げられた人を解放し」、「飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと」であると教えられているように(6~7節)、隣人への愛を実践する生き方である。
また本章では「安息日」についてもこう言われている。
「安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、取り引きを慎むなら/そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される」(13~14節)。
「安息日」を守るとは、旅や仕事など、自分のしたいことを我慢するということではない。何よりも「主を喜び」として生きることである。
このように、信仰の本質は、儀式や形式ではなく、主なる神と隣人を愛する生き方にある。主なる神は、私達の礼拝や奉仕や信仰が、本質を見失うことのないように呼びかけておられる。
「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る」(8節)。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの溢れる愛と恵みの中に置き、御前に引き出して下さったことを、心から感謝致します。
主よ、あなたは、私が、自分の世界に閉じこもることをお許しにならず、自らを低くしてあなたの子供達に仕えることを教えて下さいました。それによって、私自身も生かされました。
あなたが、このような私にも仕え、自らを捨てて下さったように、私も、今日一日、隣人のために、自らを低くして仕えることが出来ますよう、あなたの愛を注いで下さい。
あなたを信じる者が互いに仕え合い、互いに喜びと悲しみを分かち合いながら、この世を良くしていくことが出来ますよう、助け、導いて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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