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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 イザヤ書56章

聖書日課 イザヤ書56章(新共同訳 旧約pp.1153-1154)

「異邦人」「宦官」と言えば、律法によれば神の民が避けるべき人々であり、ユダヤ人は彼らを汚れた存在として軽蔑さえしていた。ところが、ここで主なる神は、「異邦人」「宦官」であっても、「わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら」、彼らを祝福し、聖なる民の交わりに「連なることを許す」と宣言された。

「主のもとに集って来た異邦人は言うな/主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな/見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる/宦官が、わたしの安息日を常に守り/わたしの望むことを選び/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら/わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(3~7節)。

 これは、裏を返せば、たとえ神の民イスラエルでも、もし主なる神の「契約」を破るなら、祝福を失い、罪を裁かれるということである。つまり、主なる神は、全ての人々を分け隔てなく愛しておられ、祝福しようと願っておられる。

 この世には、人をはかる様々な外面的な基準があり、基準に達しない人は容赦なく切り捨てられる。しかし、主なる神は、身分とか能力とか外形とか、そういう外面的な基準によって人をはかることはなさらない。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」とあるように(サムエル記上16章7節)、主なる神は、私達の内面、つまり、主なる神への愛と信頼の心を見られる。

 7節で主なる神は「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と宣言されている。主なる神は私達の「祈り」を求めておられる。「祈り」とは、主なる神に顔を向けて呼びかけることであり、主なる神に霊の耳を向けて御声に聞き入ることである。「祈り」は、主なる神への信頼の表明であり、主なる神との愛の交わりである。

 そのような愛の交わりの中に、今日も、明日も、いつまでも生き続けたい! そのような心を主なる神は全ての人に求めておられる…というより、主なる神ご自身が、私達とのそういう交わりを願い求めておられる。そのような、主なる神の熱い思いが今あなたの心にも届きますように!

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と慈しみに包まれ、引き寄せられ、御前に祈りを献げられることを心から感謝致します。

 主よ、人は色々な理由を付けて、他の人を排斥し、或いは侮辱し、傷つけ、踏み躙ります。しかし、あなたは誰も差別せず、誰も排斥せず、尊び、癒し、抱きしめて下さいます。

 主よ、私達は、この世の人生では求めても得られないものがあります。しかし、あなたは、あなたを求める者に、それに優る溢れる霊の祝福を注いで下さいます。私達一人一人、失意の中にある一人一人がそれを確実なものとして受け取ることが出来るよう、主よ、あなたの祝福を溢れるように注いで下さい。

 どうか、私達一人一人の霊の目を開き、慈しみ深いあなたを見ることが出来ますように。魂の奥深くにあなたの光を照らして下さい。

 感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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