聖書日課 イザヤ書53章(新共同訳 旧約pp.1149-1150)
聖書には、何の説明も必要なく、ただ読むだけで十分理解することが出来、しかも、深く心に語りかけてくる箇所がある。イザヤ書53章は、まさにそういう箇所の一つである。この章は、是非御言葉そのものをじっくり読み味わっていただきたいと思う。主なる神からの大切なメッセージが、きっとあなたの心に響いてくることだろう!
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた」(1~6節)。
ここに記されている「彼」とは、イエス・キリストのことである。まるで福音書を読んでいるかのように、イエス・キリストの姿がそっくりそのまま描かれている。
「わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた」にもかかわらず、「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」。そして、「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった」。それ故、「彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」!
私達は、イエス・キリストにこんなにも愛されている。この愛を信じずして、一体私達は何を信じて生きればよいだろう!
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心から賛美致します。あなたの大きな憐れみと慈しみによって今日も生かし、御前に引き出して下さったことを感謝致します。
主よ、いつの間にかあなたのところからさまよい出て、あなたの御子の十字架を遠くに見ている自分に気付きました。十字架の上の御子と共にいたいと願っていましたのに。
御子イエス・キリストは、人生に傷つき傷んだ私を握り、倒れた私を引き上げ、十字架に傷ついたその傷口に私を接ぎ合わせて下さいました。あなたの命が私に流れ込み、私は赦され、癒され、立ち上がりました。
主よ、御子の血潮は、罪に死んだ私を永遠に生かす、絶大な命です。主よ、ここにもう一度御子の十字架の血潮をほめたたえられることを感謝致します。
主よ、更に注いで下さい。日々まとわりつく、この身から出る罪の一つ一つを洗い、全ての罪から清めて下さい。
人生の痛みの中にあるお一人お一人を顧み、その傷口を御子の傷口に接ぎ合わせ、命を注いで生かして下さい。絶大なあなたの命の中に深い赦しと癒しを経験することが出来るよう、お一人お一人をお導き下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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