聖書日課 イザヤ書42章(新共同訳 旧約pp.1128-1130)
42章には、イザヤ書に特徴的な〈主の僕の歌〉の一つが記されている。ここでの主の「僕」については、イスラエル民族を指すとか、キョロス王を指しているという説がある。しかし、マタイによる福音書12章で引用されているように、主イエス・キリストの御姿を指していると捉えるのが内容的にも最もピッタリ来る。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む」(1~4節)。
1節の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」という言葉も、イエス・キリストがヨハネからバプテスマを受けて水から上がられた時に、天から聞こえてきた「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の御声と重なる(マタイによる福音書3章17節)。これは、間違いなく主イエス・キリストの御姿を示す預言の言葉である。
イエス・キリストは、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことな」い御方である(3節)。「葦」は、赤子の手でも簡単に折れてしまうほど折れ易く傷つき易い植物である。そのように脆い私達を、傷ついてボロボロの私達を、主イエス・キリストは、決して「折ることなく」、守り、導き、「確かなもの」として下さる。
また、主は、油が切れてどんどん暗くなっていく「灯心」を、決して「消すこと」のない御方である。くたびれ果てて、意気消沈し、ますます暗くなっていく私達を、イエス・キリストは決して見捨てずに燃やし続けて下さる。
これは、忙しいストレス社会の中で、傷つき、疲れ果てている現代人にとって福音と言える。
イエス・キリストは、決して「暗くなることも、傷つき果てることもない」御方である。だからこそ、私達は、いつでも、どんな状況でも、主なるイエス・キリストに信頼し、依り頼むことが出来る。
「島々は彼の教えを待ち望む」。
あなたは今、主イエス・キリストの教えを本気で「待ち望」んでいるだろうか。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛、溢れる慈しみの中、御前に引き出していただいたことを心から感謝致します。
主よ、「傷ついた葦」、「暗くなってゆく灯心」とは、まさに私のような人間のことです。今も、毎日自らを傷つけるような愚かな者、それが私です。しかし、主よ、あなたはこのような者を見捨てず、その御手に握り、新たにして下さいました。日々新たにして下さいます。あなたの恵みは日毎に新しいからです。
主よ、このような者をも用いて、この地にあなたの国をもたらそうとなさるのですか。
あなたの御心が天で行われるように、この地にもなされますように。あなたの御子が教えて下さったこの祈りを毎日唱えながら、今日あなたが私にお与えになる業を行うことが出来ますよう、助け導いて下さい。
お一人お一人を御手に握り、希望を与え、満たして下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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