聖書日課 イザヤ書36章(新共同訳 旧約pp.1117-1118)
36~37章には、紀元前701年に「アッシリアの王センナケリブ」が、ユダ王国に「攻め上」ってエルサレムを取り囲んだ時の出来事が記されている。
「ヒゼキヤ王の治世第十四年に、アッシリアの王センナケリブが攻め上り、ユダの砦の町をことごとく占領した。アッシリアの王は、ラキシュからラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼は布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。ヒルキヤの子である宮廷長エルヤキム、書記官シェブナ、アサフの子である補佐官ヨアが彼の前に出て行った。そこで、ラブ・シャケは彼らに言った。『ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。ただ舌先だけの言葉が戦略であり、戦力であるのかとわたしは言う。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか』」(1~5節)。
アッシリアの将軍「ラブ・シャケ」は、敵軍に囲まれて風前の灯となったエルサレムの人々に向かって言った。
「なぜこんな頼りないものに頼っているのか」。
「今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか」。
勿論、これはユダの人々に対する脅し文句である。しかし、この問いかけは今でも、主を信じる者に突きつけられている。周りは全て敵だらけ、目に見えるところは抜け出すための一寸の希望も見えない状況の中で、主に信頼する者には、常にこういう問いかけが迫ってくる。
信仰は戦いである。目に見える現実と御言葉の約束のどちらをとるかを問われる戦いである。この戦いを避けて通ることの出来るキリスト者は一人もいない。だからこそ、私達は、真の戦いは目に見える敵との戦いではなく、目に見えない霊の世界にあることを覚え、あくまでも、どこまでも、主と主の約束に立ち続けなければならない。
「でも、そう言われてもなぁ」と不安になっている方、心配御無用である。イエス・キリストが次のように言われている。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス